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聖書研究会 「詩編15、17編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編15、17編

2017年10月15日 渡辺善忠

 

 10月は聖書研究会で学んだ詩編を交読致しますので、まだ学んでいない15編と17編を学びます。

 

詩編15編

 冒頭に記されている「幕屋」は、古代のイスラエルが遊牧民族であった時代に、移動しながら礼拝を捧げていた場所でした。また「聖なる山」は、神がモーセへ十戒を授けた場所でした。このような背景があるため15編は、エルサレム神殿に入り、祭儀(礼拝)を捧げる時の式文であったと考えられています。

 また2〜5節前半には、信仰生活を顧みる戒めの言葉が連ねられています。この中の「舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人」(3節)という御言葉は、箴言10章18節に並行箇所があるため、元々は諺のような教えであったと言われています。またイスラエルには古代から借金や賄賂についての戒めがあるため、「金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」(5節)という御言葉は古い時代の教えに遡ると考えられています。

15編にはこのような御言葉が含まれているため、この詩編は、古代の教えや戒めが祭儀を捧げるための心構えを伝える式文として整えられ、神殿に入り、祭儀が始まる時に歌われていたと考えられています。

 このような背景は、後のローマ・カトリック教会の制度に関わりがあります。なぜならローマ・カトリック教会では、ミサ(礼拝)にあずかる前に懺悔を行い、信仰生活の過ちについて神に告白することが定められているからです。プロテスタント教会には「懺悔」という制度はありませんが、礼拝の前奏の時に一週間の信仰生活を顧みること、礼拝の前半に詩編を交読する時に御言葉によって心を低くされること、牧会祈祷(牧師による執り成しの祈祷)の時に、自らの過ちを心の内で神へ告白することは、「懺悔」のプロテスタント的な理解と実践であると考えられています。

 この意味をおぼえて、15編の御言葉に導かれて一週間の信仰生活を顧みると共に、礼拝の始まりの時に謙った心へ導かれることの大切さを心に留めたいと思います。

 

詩編17編

 この詩編には、神に信頼する詩人が敵から救われることを願った切なる祈りが満ち溢れています。敵については、.ぅ好薀┘襪涼罎砲い訶対者、▲ぅ好薀┘覦奮阿稜害者、という二つの説があり、どちらかを確定することは難しいと考えられています。また敵からの助けを願った祈りが、「主よ、御手をもって彼らを絶ち」(14節前半)という願いで頂点に達した直後に、食べ物についての素朴な願い(14節後半)が記されていることに文脈の不具合を指摘する説もあります。このため17編は、様々な敵に直面した時に助けを求めた祈りの言葉が長期間に渡って一つの詩としてまとめられたと考えられています。

この詩編の前半には、神の正しい裁きを求め、潔白を主張する言葉が収められています(1〜5節)。また続く段落には、神の守りを求めると共に、悪しき敵の描写が伝えられており(6〜12)、後半には敵を滅ぼすことへの強い願いが記されています(13〜14節前半)。このように祈りの内容が展開する中で、全体を読み解く鍵は「主よ、正しい訴えを聞き」(1節)という御言葉であると言われています。なぜなら「正しい訴え」という御言葉には「神の義」という意味が含まれており、この御言葉には、どのような状況の中でも、義しい方である神への信頼を持ち続けることの大切さが示されているからです。このような意味があるため、「正しい訴え」という御言葉は、この詩編が神殿で歌われるために整えられた時期に、全体をまとめるために加えられた言葉であると考えられています。

17編にこのような背景があることは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちの信仰生活においても、「敵」は私たちの内にも外にも存在することがあるからです。この意味を心に留めて、詩編交読を含めた聖書の御言葉によって、様々な「敵」を退け、神への信頼を持ち続ける者とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 00:13
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聖書研究会 「詩編46、49編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編46、49編

2017年9月17日 渡辺善忠

 

詩編49編(9月24日)

 9月24日の主日礼拝(合同礼拝)ではヨハネによる福音書1章29〜34節の御言葉に基づいて、御子イエスが神の小羊として十字架で屠られた贖いの御業について学ぶため、「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(9節)という御言葉が収められている詩編49編を交読致します。

 旧約聖書の時代に「贖う」という御言葉は、「金銭を支払って奴隷を買い戻す(解放する)」という意味がありました。神はエジプト人の奴隷であったイスラエルの人々を救い、再びパレスチナ地方へ導いて下さったため、「贖う」という御言葉は、神の救いの御業を示す広い意味で用いられるようになりました。しかしパレスチナ地方へ導かれたイスラエルの人々は、国が栄えるようになると神の救いの御業を忘れて「財宝」や「富」(7、11節、17節参照)に頼るようになりました。イスラエルの国が最初に栄えたのはダビデやソロモンが国を治めた紀元前10世紀頃であり、第一神殿はこの時期に建てられたため、財宝や富を戒める意味の御言葉はこの時代に遡ると考えられています。

また「格言」や「竪琴」という御言葉にも、この詩の原詩が第一神殿に遡ることが示されています。なぜなら旧約聖書の「格言集」である箴言にも第一神殿時代の言葉が伝えられており、竪琴を奏でる音楽家のルーツはダビデ王であるからです。このため49編は、財宝や富への批判が高まった第一神殿時代の原詩が受け継がれ、第二神殿が築かれた後にイスラエルが再び栄えた時代に現在の形へ発展したと言われています。

 主イエスが弟子たちにおっしゃった「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マルコ福音書8章36〜37節)という御言葉には、49編に通じる意味があります。なぜなら代々の国々も一人の人間も、富の虜(奴隷)になると、神への信頼から離れてしまうからです。私たちはこの意味をおぼえて、神が御子イエスを地上に遣わし、十字架によって私たちを贖って下さった御業のみに救いがあることを心に刻みたいと思います。

 

詩編46編(10月29日)

 46編は2015年にも聖書研究会で学びましたが、宗教改革運動を始めたルターが愛した詩編として毎年10月31日の直前の主日に交読していますので、今一度学びを深めたいと思います。

以前にも学びましたように、神が「わたしたちの砦」という御言葉は、46編以外の多くの詩編にも用いられています。イスラエルの町は城壁によって守られていたため、「砦」という御言葉は元々、神が町を守る意味で使われていたと考えられています。また「聖所」はエルサレム神殿を、「都」はエルサレムの町を指す御言葉です。このため46編の原詩は、堅固な城壁で守られているエルサレム神殿が、イスラエルの信仰の中心であることを伝える素朴な詩であったと考えられています。

また古代のパレスチナには、シナイ山をはじめとする活火山が存在したため、「山々が揺らいで海の中に移る」(3節)、「海の水が騒ぎ、沸きかえり〜山々が震える」(4節)という御言葉には、火山活動を神の御業と理解していたイスラエルの人々の理解が示されていると考えられています。46編の御言葉にはこのような背景があるため、この詩編は、古代の信仰の理解が受け継がれ、エルサレムの第一〜第二神殿の時代に整えられて現在の形に至ったと考えられています。

 このような背景は、ルターが宗教改革運動を始めた時代に通じる意味があります。なぜなら現在のヨーロッパ文化圏も「砦」によって町の境界が定められ、町の中心に教会が建てられているからです。また「山々が震える」ことは、ルターをはじめとする改革者たちにとっては、巨大な山である「ローマ・カトリック教会が震える」ことであったからです。このような寓意があるため、ルターはこの詩によって、教会の歴史が大きく変わりつつあることを、神の御業として理解したと言われています。この意味を心に留めて、教会としても一人の信仰者としても、「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」(7節)ような大きな出来事が起こった時にも、「わたしたちの砦」である神に信頼しつつ教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 00:12
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