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聖書研究会 「詩編72編、138編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編72編138

2019年2月17日 渡辺善忠

 

 今月は2月と3月の礼拝で交読致します72編と138編を学びます。

 

詩編72編(3月3日)

 この日に辿りますヨハネ福音書13章31〜38節には、神の御子イエスが十字架と復活によって栄光をお受けになると伝えられています。72編は王を讃える歌であるため、主イエスが真の王として十字架へ向かって歩まれたお姿をふまえて、この詩編を交読することに致しました。

 この詩編は、神が政治的な王を通して国を治めておられる理解を礎に編纂されました。古代イスラエルでは王の頭に油を注ぐ任職の儀礼が行われていました。「油注がれた者」はヘブライ語で「メシア」(=救い主/ギリシア語でキリスト)と呼ばれており、この言葉はユダヤ教で信仰的な救い主を指し示す意味へ発展しました。初代教会はこの理解をユダヤ教から受け継ぎ、御子イエスを「キリスト」と呼ぶようになりました。

また王の頭に油を注ぐ儀礼は、ソロモンの父ダビデの時代から始まったと考えられています。ダビデとソロモンは、イスラエルが外敵に囲まれていた時代に、他国との戦いに勝ちつつイスラエルを一つの国として統一しました。この詩編に歌われている「裁きの公平性」、「民の平和」、「広い地域の支配」、「豊潤な農作物」という御言葉には、ダビデ王とソロモン王の治世中(紀元前10世紀)に、イスラエルの人々が神の恵みを享受していたことが示されています。ソロモンは父ダビデの遺志を受け継ぎ、エルサレムの町全体を拡充させて第一神殿を建てました。詩編はこの時代に編纂され始めたため、72編は、ソロモン王の偉業を讃える原詩が理想の王をあらわす詩歌として発展したものであると考えられています。

 またこの詩編には、古代イスラエルの民が王のために祈った姿が伝えられています。これらの祈りには、神が王を支える意味と、民が王に望む希望が含まれています。このように、王が神と民を結ぶ「仲保者」であるという考えは、エジプトやバビロニア、ペルシャ等、イスラエル周辺の君主制諸国にも見られる理解でした。このため72編には、古代における信仰と政治の関係を伝える広い意味が示されています。

 古代の人々が信仰と政治をこのように理解していたことは、現代にも通じる意味があります。なぜなら私たちには、神の御心に適った政治が行われるように祈る責任があるからです。この意味をおぼえて、神の御子イエスが全ての国を治めておられる真の王であることを心に留めながら72編を交読致しましょう。

 

詩編138編(2月17日)

 ヨハネ福音書13章1〜20節には、十字架を目前に控えた主イエスが弟子たちの足を洗って下さったと伝えられています。詩編138編には心を低くして神に仕えることの大切さが歌われているため、信仰者が仕え合うお手本を主イエスがお示しになったお姿をおぼえて、この詩編を交読することに致しました。

 「心を尽くして」(1節)という御言葉には、古の詩人が神に全てを献げた思いが示されています。この御言葉は十戒の第一戒「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4節)と同じ御言葉であり、申命記に多く使われています。十戒は旧約聖書全体の土台であるため、古代の信仰者たちは神に仕えることの大切さを示す時にこの御言葉を用いたと考えられています。

 またこの詩編の内容と御言葉は、イザヤ書48〜66章の影響を受けています。イザヤ書のこの部分は、戦争に負けてバビロンで捕虜として歩んでいたイスラエルの人々が解放され、再びエルサレムへ帰った紀元前6世紀後半に書かれました。このような背景があるため、「聖なる神殿」はエルサレムに再建された第二神殿のことであり、「解き放ってくださいました」(3節)という御言葉は捕虜から解放されたことであり、「主の道」(5節)はバビロンからエルサレムへ帰る道を示す意味であると考えられています。

 この詩編の前書きにはダビデの名が書かれていますが、前述の背景があることに加えて、イザヤ書の後の時代に編纂された可能性が高いため、この詩は紀元前5世紀以降に現在の形に至ったと考えられています。

 138編が編纂された経緯にこのような背景があることは、私たちにも身近な意味があります。なぜならイスラエルが滅ぼされ、多くの人々が捕虜とされたように、私たちも自分の存在が危うくなり、悩みや苦しみに縛られ、「捕虜」のようになることがあるからです。また神がイスラエルの人々を解放し、バビロンからエルサレムへ助け導いて下さったように、神の御子イエスは、聖書の御言葉と聖霊によって私たちの歩みを守り導いておられるからです。この意味をおぼえて、神に仕えることが信仰の交わりの基本であることを心に留めると共に、神が御子イエスの十字架と復活によって、全ての人々を救いへ招いて下さった恵みを感謝して受け入れながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 15:02
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聖書研究会 「詩編44編、53編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編44編53

2019年1月20日 渡辺善忠

 

 今月は、まだ学んでいない44編と53編を学びます。

 

詩編44編

 この詩編の前半には、神が古代イスラエルの歴史を導き、カナンの地(パレスチナ地方)に定住する土地を授けた恵みへの感謝が歌われています(1〜9節)。この部分は、過越祭をはじめとするユダヤ教の祭や神殿の祭儀で用いられていた祝歌が原詩であったと考えられています。また約束の地が与えられたことを喜び歌う御言葉は、他の詩編や出エジプト記、ヨシュア記、イザヤ書にも並行箇所があるため、44編の御言葉は歌や韻をふんだ詩節として広く知られていたと考えられています(3〜4節)。ここにはイスラエルの真の王である神のもとでイスラエルが最も繁栄した時代の歴史が歌われているため、古代の信仰者たちは、神が自分たちの国を建てて下さった恵みを心から享受していたことがうかがえます。

しかし後半には、イスラエルの国が滅ぼされ、人々が苦難に直面した出来事が伝えられています(10〜23節)。また結びには、救いを求める切なる願いが綴られています(24〜27節)。イスラエルの北王国は紀元前8世紀に、南王国は紀元前6世紀に滅ぼされました。旧約聖書には、この時期のイスラエルの人々が苦難に直面した理由について自問自答した御言葉が多く記されています。後半には、神がイスラエルを見捨てても、イスラエルの信仰者が神に信頼しつつ歩み続ける姿が繰り返し歌われているため、44編の原詩を歌った古の詩人は、イスラエル全体が苦難に直面していた中で、神を見上げて歩み続ける雄々しい信仰を授けられていたと言えましょう。

また、「我らはあなたゆえに、絶えることなく、殺される者となり、屠るための羊と見なされています」(23節)という御言葉はローマ書8章36節に引用されています。ローマ書8章には、苦難の中で神に信頼し続けることの大切さが説かれているため、初代教会の伝道者パウロは、教会が迫害に直面していた中で、イスラエルが苦難の中で神に信頼していた姿を顧みるためにこの御言葉を引用したと考えられています。

パウロが23節を引用したことは、私たちを含めて、全ての信仰者にとって大切な意味があります。なぜなら私たちも、大きな苦難に直面した時にこそ、神への信頼を堅く保つことが大切であるからです。この意味をおぼえて、詩編の歌によって神の救いの歴史を心に刻む者とされたいと思います。

 

詩編53編

 前書きに書かれている「マハラト」は古代の楽器であり、「マスキール」はこの詩の用途か歌い方であると考えられています。具体的な楽器や歌い方は不明ですが、53編全体は一般的な内容であるため、原詩は罪への戒めを告げる素朴な祈祷文であった可能性があります。また「神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき」という御言葉には、イスラエルが捕囚から解放される時期が示されているため、この詩は紀元前6世紀の後半に現在の形に整えられたと考えられています。また53編は14編とほとんど同じ詩であり、12編も共通した内容であるため、これらの原詩は神殿や会堂で広く用いられていたと考えられています。

「神を知らぬ者」という御言葉は「神を否定する者」という意味であるため、この言葉は異教徒や無神論者ではなく背教者を指す意味があります。このため「忌むべき行いをする」、「善を行う者はいない」という御言葉はいずれも、神の御心に反する行いをする者を示す意味があります。この御言葉の意味を前述の状況に照らして考えますと、イスラエルの国が紀元前6世紀に滅ぼされ、多くの人々がバビロンで捕虜として生活していた中で、神から離れて律法に反する人々が多くあらわれたことが原詩が書かれた状況であったと考えられています。また「わたしの民を食らい」(5節)という御言葉には、イスラエルの人々の中で、同胞者を食いもののようにして生活を営んでいた者がいたことが示されています。

 53編の原詩はこのような状況の中で歌われたため、「神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」という御言葉には、神が背信者を戒める御業が示されており、「神が捕われ人を連れ帰られるとき」という御言葉には、神が真の信仰者を捕虜から解放し、イスラエルへ連れ帰ることを預言する意味があります。

 このような背景は、私たちにとっても戒めの意味があります。なぜなら私たちも、礼拝にあずかっていながら、週日は神に背く行いをすることが多々あるからです。また私たちが、信仰の交わりを自分の都合に合わせて考える時には、「わたしの民を食らう」者となっているかもしれません。この意味をおぼえて、聖書の御言葉と聖霊によって神を知る信仰の知識が深められることの大切さを心に留めると共に、健やかな信仰の交わりのうちに教会生活を歩み続ける者とされるように祈り合いましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 14:45
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聖書研究会 「詩編と楽器」

巣鴨教会聖書研究会 詩編と楽器

〜旧約聖書/詩編に伝えられている楽器の起源と発達〜

2018年12月16日 渡辺善忠

 

 詩編にはしばしば楽器の名前が記されているため、今月は「閑話休題」として、詩編に伝えられている楽器を含めて、旧約時代から現代に至る楽器の発展について学びたいと思います。

 

1.古代ユダヤ教の楽器

 旧約聖書の創世記4章21節に伝えられている「ユバル」は、ユダヤ教では楽器を演奏する音楽家の父祖と理解されています。「ユバル」はヘブライ語の「ヨベル」(喜びの時)に由来する名前であり、ユダヤ教では「ヨベルの年」(7年毎)に大掛かりな祭儀が行われています。このため「ユバル」は、祭儀(礼拝)が始まる時を楽器の音で告げ知らせる役目を担っていたと考えられています。また創世記4章22節に記されている「ナアマ」は英語の「name」(名前)の語源であり「音に名前を付す」という意味があります。このため「ナアマ」は、音を覚える(後代には「楽譜を記す」)役割の女性であったと言われています。創世記にこのような記述があるため、ユダヤ教では古代から楽器と祭儀が結びついていたと考えられています。

 また民俗音楽の視点によりますと、楽器は、木などを叩いて音を出す打楽器が最初にあらわれ、動物の角や木による管楽器が続き、さらに、糸を作る技術が発展した後に弦楽器が登場したとされています。このためユダヤ教の祭儀でも打楽器・管楽器・弦楽器の順で楽器が用いられるようになったと考えられています。

このことは、出エジプト記15章の場面に示されています。なぜなら出エジプト記15章21節に伝えられているミリアムの歌は、1〜18節に収められているモーセの歌よりも古いと考えられており、この場面では、打楽器の音頭によって歌と踊りが捧げられているからです。

 

2.第一〜第二神殿時代

 ダビデ王〜ソロモン王の時代に建てられた第一神殿時代には、祭儀音楽の専門家が登場しました。音楽の専門家があらわれたことは、神殿の祭儀が大掛かりになって歌に伴奏が必要になったことと、音楽に長けていたダビデが多くの音楽家たちを重用したためであると考えられています。詩編の元の資料は第一神殿時代に遡るため、詩編に登場する楽器(動物の革や金属による打楽器、動物の角や木による縦笛、弦の数が異なる竪琴)は第一神殿の時代に出揃っていたと考えられています。詩編の元の言葉では弦の数によって楽器の名前が呼び分けられておりますので、弦楽器はこの時代にいっそう発達したと考えられています。

 また、イスラエルが紀元前6世紀に滅ぼされ、多くの人々が新バビロニア帝国の首都バビロンで捕虜とされた時代に、イスラエルの人々はパレスチナ地方の東側の音楽から影響を受けました。このような背景があるため、ネヘミヤ記12章に伝えられている第二神殿の大掛かりな落成式の場面には、東側の音楽文化の影響があらわれていると考えられています。特に、神殿の門を中心として城壁の両側に並んだ二つの聖歌隊が「ステレオ」のように演奏する方法には、バビロンの音楽文化の影響があると言われています。

しかし、紀元後70年にローマ帝国が第二神殿を破壊した後に、ユダヤ教の音楽は町ごとの会堂を中心とする古代の素朴な様式に戻り、この後は会堂を中心に音楽が発展しました。

 

3.ユダヤ教から教会へ

 教会は、ローマ帝国がユダヤ教を迫害し、エルサレム神殿を破壊した前後の時代に歩み始めました。このため教会は、ユダヤ教の会堂で奏でられていた歌を中心とする素朴な音楽を受け継ぎ、キリスト教の理解を加えた賛美歌を歌うようになったと考えられています。紀元後1世紀の後半に教会の勢力が増すと、ローマ帝国は教会を激しく迫害するようになりました。迫害を受けていた時代の教会では、大掛かりな礼拝を行うことが出来なかったため、教会では長らく賛美歌が無伴奏で歌われていたと考えられています。

紀元後4世紀にローマ帝国がキリスト教を公認した後は、「グレゴリオ聖歌」と呼ばれる単旋律の聖歌が無伴奏で歌われていましたが、紀元後10世紀前後には素朴なパイプ・オルガンが用いられるようになったと考えられています。ローマ・カトリック教会ではその後も長らく、無伴奏で聖歌を歌うことを尊重していました。しかし16世紀に宗教改革運動が始まり、プロテスタント教会がパイプ・オルガンを積極的に導入したことの影響を受けて、ローマ・カトリック教会でも17世紀頃からパイプ・オルガンが使われるようになりました。こうした歴史を経て、現在はローマ・カトリックとプロテスタント教会の両方でパイプ・オルガンが重用されています。楽器の発達にこのような歩みがあることをおぼえると共に、旧約聖書/詩編の御言葉によって、礼拝に用いられている楽器のルーツが「ユバル」に遡ることを心に留めたいと思います。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 15:04
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聖書研究会 「詩編119編」

 巣鴨教会聖書研究会 詩編119

2018年11月11日 渡辺善忠

 

 本日は11月18日の伝道礼拝で一部を交読する119編を学びます。この詩編は詩編全体の中で最も長く朗読に約20分かかりますので、本日は全体を学んだ後に1〜176節を輪読したいと思います。

 

1.全体の構成と内容

 全体の構成は、アレフ:1〜8節=導入、ベト:9〜16節=若者への呼びかけ、ギメルーシン:17〜168節=主部、タウ:169〜176節=結び、という四部分に分かれています。またこの詩の原文は、ヘブライ語のアルファベット22文字に従って、22段落にアルファベットが1文字ずつ用いられており、各段落は8行ずつから成り立っています。このように緻密な構成であることに加えて、「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」(9節)と記されているため、この詩編は、神の御言葉の大切さを若者へ教える「教科書」として編纂されたと考えられています。

 

2.八つのキーワード

 この詩編の8行ずつの段落には、8つの御言葉が一つ以上収められています。このため119編を現在の形に編纂した人々は、長大な詩歌を統一するために8つの言葉を全体のキーワードとして用いたと考えられています。この意味をおぼえて、8つの御言葉の意味を心に留めながら全体を輪読したいと思います。

[法

 ヘブライ語で「トーラー」。「教え」や「教示」という意味。トーラーは旧約聖書の中では神の御心を伝える言葉や書物を指し示す意味で用いられている。

定め

 神がイスラエルに語られた教えを示す言葉で、出エジプト記と申命記に多く用いられている。これらの書物の元の資料は古代に遡るため、初期のユダヤ教から受け継がれている教えを示す意味もある。

L仁

 神の要求と禁止をあらわす言葉。この言葉には、神が人間を正しい道へ導かれる意志と期待が込められているため、「〜しなさい」という意味と「〜するだろう」という意味が含まれている。

 この御言葉にも神の要求と禁止が示されている。「命令」が一つ一つの出来事にそくした神の言葉であることに対して、「掟」は様々な出来事に共通する内容がまとめられた言葉という意味がある。

ゲめ

 「戒め」も「掟」と同様に、様々な出来事に共通する内容がまとめられた言葉。「掟」が「決まりごと」をあらわしていることに対して、「戒め」には懲罰の意味も含まれている。

裁き

 「裁き」は、神が「命令」、「掟」、「戒め」を破った者を裁くという意味の言葉。旧約聖書では、神が直接裁きを行う意味と、神が政治制度を通して裁きを行う両方の意味で用いられている。

Ц羝斥

 神の御心を伝える意味の言葉で、「律法」と同じ意味がある。紀元前6世紀に旧約聖書の元の文書が書かれるようになった後は、書き記された言葉が「聖書の御言葉」としていっそう尊ばれるようになった。

╋弔察別鸞)

 「御言葉」と同義語で、「神が仰ったこと」という意味の言葉。「御言葉」が確立された教えをあらわす意味に至ったことに比較すると、「仰せ」という言葉は「話す」というシンプルな意味である。

 

3.119編と信仰生活

 119編に示されている「神の言葉への賛歌」は、ヨハネ福音書1章1〜18節に収められている「神の言葉である御子イエスへの賛歌」に通じる意味があります。また、この詩編の冒頭に二回繰り返されている「いかに幸いなことでしょう」という御言葉は、マタイ福音書5章3〜10節に伝えられている主イエスの「山上の説教」に受け継がれています。このため初代教会の人々は詩編119編を、御子イエスが神の言葉としてお生まれになったことを指し示す預言の意味で理解したと考えられています。

この意味を心に留めて、父なる神と御子イエスの教えが収められている聖書の御言葉を尊び、御言葉によって神の御心にかなった道を歩み続ける者とされるように祈り合いましょう。

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聖書研究会 「詩編38編、41編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編38編41

2018年10月14日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない38編と41編を学びます。この二編はいずれも、罪と病からの救いを求める祈りの歌ですので、二つに共通する内容を学んだ後に個々の詩編を辿りたいと思います。

 

詩編における病と罪

 38編、41編をはじめとして、6編1節、32編3〜5節、39編10〜11節、88編7/16節、107編17〜22節、103編3節には、古代のユダヤ教で、病が罪の結果であり、神の怒りによって病に罹るという理解があったことが示されています。罪の結果で病が起こるという理解には、個々の信仰者だけでなくイスラエル全体に対する意味もあり、一般的な病気という意味に加えて、国が病んでいるという象徴的な意味も示されていると考えられています。

 しかしこれらの詩編には、全ての病が具体的な罪への罰であるという理解は直接見られません。このためこれらの詩節は元々、神と個々の信仰者を執り成す意味と、共同体(イスラエル全体〜各会堂を中心とした信仰共同体)と神を執り成す日常の祈りの言葉であったと考えられています。このような背景をおぼえて、神が私たちの罪を赦し、病を癒して下さる恵みを祈り求めながら、二つの詩編を辿りたいと思います。

 

詩編38編

この詩に繰り返されている「わたしの肉にはまともなところもありません」(4、8節)という嘆きの言葉には、詩人が生まれながらの病(或いは障害)を持っていたことが暗喩されています。このため38編の最も古い詩節は、個人が病の癒しを願う素朴な内容に遡ると考えられています。

また、この詩編は22行であり、ヘブライ語のアルファベットの数と一致するため、病の癒しを祈る素朴な原詩が長く集成された後に、祭儀に用いるために現在の形に整えられたと考えられています。

 さらにこの詩には、イスラエルが神に背いたために裁きを受けているという歴史的な背景があり、イザヤ書1章5〜6節や哀歌3章にも通じる内容があります。このため38編は、個々の信仰者が病の癒しを求める原詩に歴史的な内容が加えられながら長期間に渡って発展したと考えられています。

 38詩編全体には、神の怒りを正しく受け止めることの大切さに加えて、私たちの側から神へ和解を求める内容が歌われています。この内容は、エルサレム神殿の祭儀と会堂の礼拝全般に通じる意味があるため、初代教会はこの詩の理解をユダヤ教の会堂から受け継いだと考えられています。このような歴史は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、主日礼拝ごとに、主イエスの十字架による罪の赦しを祈っているからです。また主イエスの十字架による罪の赦しを思い起こすために、受難節の時にこの詩編を用いている教会もあります。この意味を心に留めて、旧約聖書の時代から受け継がれてきた祈りの言葉が、主イエスの十字架によって本当の出来事とされている恵みを感謝して受け入れたいと思います。

 

詩編41編

 この詩は、ー綣圓鮖廚い笋襪海箸梁臉擇機複雲瓠法↓⊇吠,慮斥奸複院腺垣瓠法↓5Г蝓複粥腺隠雲瓠法↓さ澆い量鸞への信頼と頌栄(12〜14節)という四つの内容から構成されています。この内容全体は、会衆への教導的な意味があるため、この詩編もエルサレム神殿とユダヤ教の会堂で広く用いられていたと考えられています。また頌栄の言葉(14節)は詩編全体を五つの部分に区切る意味があるため、詩編を現在の形に編纂した人々は、1〜40編の結びとして、広い内容の詩歌を収めたと言われています。

 この詩編全体には、神に導かれて信仰共同体(会堂)の信仰が健やかに育まれることの大切さが示されています。このため41編は、町ごとに建てられた会堂で礼拝を守ることが広く定着した時期(紀元前10世紀頃以降)から詩編が編纂された紀元前6世紀〜紀元前後にかけて、長く歌い継がれていたと考えられています。初代教会はこの意味を受け継ぎ、早い時期からこの詩編が礼拝で歌われていたと言われています。

 このような背景は、新約聖書の場面にも示されています。なぜなら「心の貧しい人々は、幸いである」という御言葉で始まる「山上の垂訓」の場面は、「いかに幸いなことでしょう」(1節)という御言葉の影響を受けているからです(マタイによる福音書5章7〜10節)。山上の垂訓は「幸いである」というギリシャ語から始まるため、著者マタイはこの御言葉によって、詩編の御言葉が主イエスの教えによって本当の出来事となったことを示していると考えられています。このような背景をおぼえて、41編の御言葉によって、神が御子イエスを通して病人を含めた弱者を親しく顧みておられる恵みを心に刻みたいと思います。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 19:54
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聖書研究会 「詩編86編、105編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編86編105

2018年9月16日 渡辺善忠

 

 今月は9月9日と23日の主日礼拝で交読する86編と105編を学びます。

 

詩編86編(9月9日)

 9月9日に辿るヨハネによる福音書8章21〜30節には、御子イエスが神であるという信仰の基本的な理解が伝えられているため、信仰の広い内容が歌われている86編を交読することに致しました。

 詩編86編には、他の詩編や旧約聖書と共通する御言葉が大変多く収められています(1節後半=40編18節、4節後半=25編1節、11節前半=27編11節、14節=54編5節、5節=出エジプト記34章6節を比較参照)。また並行箇所の御言葉以外の詩を含めて、この詩編全体には独創的な内容が含まれておりません。さらにこの詩の文言には全て、「わたし」という一人称単数の文体が使われています。このため86編は、詩編全体がまとめられつつあった第二神殿時代以降に現在の形に編纂され、神殿や会堂で、個人の救いを求める歌(或いは式文)として広く用いられていたと考えられています。

 この詩が個人の救いを求める歌として広く用いられていたことは、各節の御言葉に示されています。なぜならこの詩は、個人の救いを求める内容でありながら、各節には具体的な内容が詳しく伝えられておらず、一般的な嘆きをあらわす御言葉が多く用いられているからです。

またこの詩の内容は、呼び掛け(1〜7節)、賛美と神の理解(8〜10節)、信仰者としての備え(11〜13節)、困難の描写と神の慈しみを求める祈り(15〜17節)の四つの部分に分けられますが、この構成は、神殿の祭儀や会堂の礼拝の式順に沿っていると考えられています。このように、御言葉の内容が一般的であることと構成順序にも、86編が神殿や会堂で広く用いられていたことが示されています。

 86編がこのような背景で整えられたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜならこの詩編は、私たちにとっては「主の祈り」や「信仰告白文」のように、暦を越えて、礼拝で繰り返し用いられていた可能性があるからです。また前述の四つの内容は、ユダヤ教から初代/古代教会の礼拝、ローマ・カトリック教会のミサを経て、プロテスタント教会の礼拝では、「礼拝への招きの言葉と応答」、「讃詠の賛美歌」、「聖書朗読と説教」、「説教後の祈祷と賛美歌」へ受け継がれています。この意味を心に留めて、86編によって礼拝全体が整えられるように祈り合いながら、この詩編を交読致しましょう。

 

詩編105編(9月23日)

 9月23日に辿りますヨハネによる福音書8章39〜47節には、教会の信仰のルーツがユダヤ教であることが示されているため、旧約聖書の歴史が伝えられている105編を交読することに致しました。

 古代ユダヤ教は、神がイスラエルの人々をエジプトから救い出し、パレスチナ地方へ導いた「出エジプト」の出来事から本格的に歩み出したと考えられています。このため旧約聖書には、105編と同様に出エジプトの出来事を歌った詩歌が多く収められています(詩編78編、106編、136編、出エジプト記15章1〜21節参照)。これらの箇所には共通する御言葉が多く収められているため、出エジプトの出来事は、旧約聖書の元の文書が記される前から、多くの詩歌によって世代を超えて歌い継がれていたと考えられています。特に、105編と106編には出エジプトの出来事が大変詳しく歌われているため、古代から詩編が編纂されるまでの長期間に渡って発展したと考えられています。

 105編全体は、出エジプトの出来事が神の恵みの御業であることへの賛美と感謝に満ちています。これに対して106編には、神の救いの御業に応えられなかったイスラエルが自らの罪を悔い改める内容が含まれています。このため105編は、出エジプトの出来事を伝える詩歌がそのままの内容で収められており、106編は、神の救いの御業に応えられなかったために、紀元前6世紀にイスラエルが滅ぼされた後に現在の形へ整えられたと考えられています。105編と106編にはこのように対照的な内容であるため、神殿や会堂では、この二つの詩編が交互に歌われていた可能性があるとも言われています。

 105編にこのような背景があることは、私たちにとって二つの大切な意味があります。第一の意味は、この詩編をはじめとして、アブラハム、イサク、ヤコブから始まったイスラエルの信仰の歴史を伝える詩歌には、旧約時代の信仰が教会の歴史を経て私たちに続いている歩みが示されていることです(6〜11節参照)。また第二の意味は、私たちの礼拝においても、神の救いの御業への応答には、賛美と悔い改めが含まれることが望ましいからです。この意味を心に留めて、神の救いの御業を謙った心で受け入れる者とされるように祈り合いながら105編を交読致しましょう。

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聖書研究会 「詩編35編、39編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編35編39

2018年7月15日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない35編と7月8日に交読致しました39編を学びます。

 

詩編35編

 この詩には冒頭から末尾まで、「わたし」という一人称単数形の主語によって救いを求める祈りが連ねられています。全体の内容は、争いの中で助けを求める祈り(1〜8節)、貧困や搾取から救いを求める祈り(9〜10節)、正しい裁きを求める祈り(11〜16節)、救いの御業を求める祈りと結びの賛美(17〜28節)に分けられます。現在のテキストではこれらの内容が緊密に結び合っておりますが、元々は個人的な願いを祈り求める言葉が段々とまとめられ、この形に至ったと考えられています。

 冒頭に記されている「争う者と争い」(1節)という御言葉は、戦争などの大きな争いを背景としているという説と、日常的な論争を指し示しているという二つの理解があります。また「わたしの命を奪おうとする者」(4節)という御言葉には、文字通りに「命を奪う」という意味の他に、「恥に落とす」という意味も含まれています。他の御言葉も含めて、この詩編の御言葉は意味が多義に渡っているため、翻訳が難しいと言われています。しかし、一つの御言葉に多くの意味があることを良い意味で受け取るならば、この詩編には個人から大きな共同体の歩みに至るまで、広い意味が込められていると思われます。

 また注解書の中には、この詩の源流はダビデ王の即興の祈りであり、後の時代に神殿の祭儀のために整えられたとする説もあります。この詩を直接ダビデ王の祈りの言葉に帰することには異論もありますが、個人的な祈りが即興的に歌われていたという理解は大切であると言われています。

 以上の理解は、私たちにも身近な意味があります。なぜならこの詩の内容と同様に、私たちにも日々の戦いがあり、他者から貶められる時があり、自分の正しさを主張する時があり、神の御業を切に祈り求めることがあるからです。また私たちは、身近な共同体から国々の関係に至る様々な問題に直面する中で、祈りの言葉を心の中で歌として響かせることがあります。この意味を心に留めて、35編を交読する時には、広い意味に思いを馳せながら御言葉を味わいたいと思います。

 

詩編39編(7月8日)

 7月8日の主日礼拝で辿るヨハネによる福音書6章60〜71節には、主イエスのもとから多くの弟子が離れ去った中で、ペトロをはじめとする直弟子たちが主のもとに留まったと伝えられています。このような内容であるため、「神に逆らう者が目の前にいる」(2節)、「あなたに背いたすべての罪」(9節)という御言葉に導かれて39編を交読することに致しました。

 39編のキーワードは、「口にくつわをはめる」(2節)、「わたしは口を閉ざして沈黙し」(3節)、「わたしは黙し、口を開きません」(10節)という三つの御言葉であると考えられています。なぜならこれらの御言葉にはいずれも、言葉で罪を犯すことを戒める意味があるため、この詩の作者は、沈黙と自らの発言の狭間に立ちながら、心の中でこの詩を歌っているからです。こうした内容であるため、この詩編は、神殿で行われる公の祭儀よりも、個人で祈りを捧げる時にふさわしい歌であると言われています。

 また古代においては、「沈黙」を信仰的な苦行として受け止める理解もあったと伝えられています。このため39編は元々、古代において様々な信仰の鍛錬が行われていた時代の原詩が歌い継がれ、現在の詩編に収められる時に、公の祭儀で歌うために整えられたという理解もあります。

 さらにこの詩の内容は、神に打たれることを黙して受けとめたヨブの姿に通じるところがあり、コヘレトの言葉を思い起こさせる御言葉も含まれているため、知恵文学に近い歌であるとも言われています。

 以上の背景は、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、誰にも相談することが出来ない状況の中で苦しみや悩みを耐え続ける時があるからです。また私たちも、沈黙の中で神への信頼を深める時があり、口を閉ざしている時に神への祈りを心の神殿で響かせることがあります。

 この意味を心に留めて、「わたしは御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人」(13節)という御言葉に導かれて、神の御もとに繰り返し立ち返ると共に、私たちの信仰が天におられる先達の方々につながっていることへの希望を与えられながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編26編、37編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編26編37

2018年6月17日 渡辺善忠

 

 今月は6月10日に辿りましたヨハネによる福音書6章1〜15節の場面にちなんだ37編と、まだ学んでいない26編を学びます。

 

詩編37編(6月10日)

 6月10日はヨハネによる福音書6章1〜15節に伝えられている主イエスが五千人の人々へ食事を与えた場面を辿りますので、「信仰を糧とせよ」(3節)、「飢饉が起こっても飽き足りていられる」(19節)、という御言葉に導かれて、37編を交読することに致しました。

 37編はヘブライ語のアルファベット(22文字)の各文字が二行ずつ連ねられており、元の詩は44行の長い詩として編纂されています。アルファベット順の詩編は「数え歌」の形で記憶しやすく、この詩は教育的な内容であるため、信仰生活の実践的な勧めが歌としてまとめられたと考えられています。

 この詩編には、「この地に住み着き(3節)、「とこしえに嗣業を持つ」(18節)、「住み続ける」(27、29節)という御言葉が繰り返されているため、信仰の父祖の地を受け継ぐことを最も大切な主題として編纂されたと考えられています。この主題をイスラエルの歴史に照らして考えますと、エジプトを脱出してからカナン(パレスチナ)に定着するまで約40年の歳月を要したことや、紀元前6世紀にイスラエルの国が滅ぼされた苦難の歩みを経験する中で、神が約束なさったカナンの地に定住することへの憧れが、この歌の通奏低音として奏でられていると言われています。

また「信仰を糧とせよ」(3節)、「飢饉が起こっても飽き足りていられる」(19節)という御言葉には、「イスラエル」という信仰共同体に連なる全ての人々が、神が備えて下さる恵みに信頼しつつ信仰生活を歩み続けることの大切さが示されています。

 37編がこのような歴史的な背景の中で編纂されたことは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら神は、イスラエルをカナンの地へ導いて下さったように、私たちを教会へ導き、「約束の地」である教会で落ち着いた信仰生活へ導いて下さるからです。この意味を心に留めて、神が御子イエスを通して、私たちに豊かな恵みを備えて下さる御業を感謝して受け入れながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

 

詩編26編

 この詩の2〜3行目に歌われている「わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません」(1節)という御言葉には、詩人が自らを正しいとする思いが強調されています。この内容は、「人間が全て罪人である」という聖書全体の主題に反するように思えるため、この詩編を礼拝で用いる時には、以下の二点を心に留めることが大切であると言われています。

 第一の大切な点は、この詩は、冒頭に記されている「主よ、あなたの裁きを望みます」という御言葉を基に全体を理解するべきであることです。なぜならこの御言葉には、神の裁きのみが正しいことが示されているため、詩人は、神が真実であることを告白した後に、自らの正しさを歌ったと考えられるからです。

 また第二に大切な点は、冤罪の状況に陥った詩人がこの詩を綴った可能性があることです。詩人が冤罪とされた状況は、「主よ、わたしを調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してください」(2節)、「主よ、わたしは手を洗って潔白を示し」(6節)という御言葉に示されています。また「あなたの祭壇を廻り、感謝の歌声を響かせ」(6〜7節)、「主よ、あなたのいます家」(8節)、「聖歌隊と共にわたしは主をたたえます」(12節)という御言葉には、詩人が自身の冤罪について神殿へ申し立てていることを背景に記された可能性があります。このため26編は、信仰者が身の潔白を申し立てる請願の時に歌われたことに加えて、神殿の裁きが公平に行われることを祈願する際に歌われていたという説もあります。

 このような背景は、時と場を越えて、全ての信仰者にとって大切な意味があります。なぜなら私たちを含めて全ての信仰者は、周りの人々に対する弁明の言葉が全て虚しく、神の裁きだけに頼らざるを得ない時を経験することがあるからです。この意味をおぼえて、26編を交読する際には、神だけが裁きを正しくなさる方であることを心に留めると共に、神が祭儀(=礼拝)の時にお示し下さる正しさを、神の御心として信じ受け入れる者とされるように祈り合いたいと思います。

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聖書研究会 「詩編47編、68編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編47編68

2018年5月20日 渡辺善忠

 

 今月は復活の主イエスが天に上げられた出来事をマルコによる福音書16章9〜20節とルカによる福音書24章36〜53節で辿るため、二つの場面に関連がある47編と68編を学びます。

 

詩編47編(5月6日)

 47編に記されている「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる」(6節)という御言葉は、復活された御子イエスが神として天に凱旋された出来事にふさわしいため、マルコ福音書に伝えられている昇天の場面に合わせて、この詩編を交読することに致しました。

 旧約聖書には、神が天に上られる出来事が具体的に伝えられている場面はありません。しかし創世記2〜3章には「エデンの園」が、神がおられる「天的な場所」として描かれています。また創世記28章には、ヤコブが夢の中で「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」という光景を見たと伝えられています。この夢には、エデンの園から追放されたアダムとエバをはじめとして、私たち人間が天への憧れを抱いていることが象徴されていると言われています。

 イスラエルが王国として統一され、エルサレムに神殿が建てられた時代の人々は、古代の信仰者たちが抱いていた天への憧れを、神殿の祭儀であらわそうとしたと言われています。このため「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる」という御言葉には、神がエルサレム神殿に臨在なさっていることに加えて、神殿が天へつながる場所であるという古代の信仰者の理解が示されていると言われています。

 このような背景は、「主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(3節)、「神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる」(9節)という詩節にも示されています。なぜならこれらの御言葉には、神が天から全ての国々を司っておられる御業が示されているからです。

この意味は、マルコ福音書に伝えられている昇天の場面にも関わりがあります。なぜなら神は、御子イエスを地上に遣わし、御子の十字架と復活によって死を滅ぼした後に天へ上げられ、ご自身の右の座におられる御子イエスを通して、全ての国々を司っておられるからです。この意味を心に留めて、昇天された御子イエスが私たちを守り導いておられる御業を感謝して受け入れつつ、主の昇天を喜び祝いましょう。

 

詩編68編(5月13日/昇天日)

 この詩編に歌われている「雲を駆って進む方」(5節)、「主よ、神よ、あなたは高い天に上り」(19節)、「いにしえよりの高い天を駆って進む方に」(34節)という御言葉には、神が天と地を自由に行き来される方であるという理解が示されています。また「神は聖なる宮にいます」(6節)、「シナイの神は聖所にいます」(18節)、「あなたの神殿からエルサレムの上に」(30節)という御言葉には、エルサレム神殿が天につながる聖なる場所と理解されていたことが示されています。このため47編と同様に、この詩編にも、エルサレム神殿の祭儀が、天につながる儀礼として理解されていたことが示されていると言われています。

 また前口上に記されている「指揮者によって」という御言葉には、この詩編が大規模な祭儀で用いられていたことが示されています。さらに「敵を散らされる」(2節)、「御前に喜び歌って楽しむ」(4節)、「神の戦車は幾千、幾万」(18節)、「神よ、あなたの行進が見える」(25節)という御言葉には、この詩編の原詩が、戦争の凱旋歌であったことが示されています。このため68編は、戦勝を祝う祭儀で歌われていた原詩が発展して、エルサレムに第二神殿が建てられ、第一神殿にも増して大掛かりな祭儀が行われるようになった時期に、現在の形に編纂されたと考えられています。

 68編にはこのような背景があるため、紀元後70年にローマ帝国がイスラエルを滅ぼし、エルサレムの第二神殿が破壊された後に、ユダヤ教の人々はこの詩を、エルサレム神殿を含めて、古代イスラエルの盛衰を伝える歌として理解するようになったと伝えられています。

 しかし教会ではこの68編を、神が復活の御子イエスによって死を滅ぼし、天に凱旋される祝歌として受け継ぎ、この詩は、復活された御子イエスが昇天された出来事を伝える喜びの歌として奏でられるようになりました。この意味を心に留めて、神の御子イエスが、復活と昇天によって、天に至る道を私たちに開いて下さった御業を感謝して受け入れながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編22編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編22

2018年4月15日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない22編を学びます。この詩編は節数が長いため一編だけを丁寧に辿ります。

 

詩編22編

(1)全体の内容と編纂された経緯

 詩編22編には個人の嘆きが切々と歌われているため、前口上に記されているダビデをはじめとして、様々な形で迫害や苦しみに直面した信仰者たちの嘆きが背景にあると考えられています。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という詩節は、イスラエルの国が滅ぼされ、神に見捨てられたと感じつつ、捕虜としてバビロンに向かった人々の嘆きの言葉であったと言われています。また旧約聖書全体には、度重なる周辺諸国との戦いや軍事的な緊張関係、王や預言者、祭司たちの苦難、信仰者個人の嘆きが多々伝えられています。このため22編全体には、国全体から町ごとの会堂、個々の信仰者に至るまで、様々な悩み苦しみの呟きが集約されているとも言われています。

 このような言葉が溢れている中で、「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た」(5節)、「イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ」(24節)、「わたしの魂は必ず命を得」(31節)という御言葉には、神が人々の悩みを顧み、救いへ導いて下さることへの希望が示されています。嘆きに満ちた詩歌の狭間に神の救いへ信頼と希望を寄せる御言葉が収められているため、この詩は、元来は短かった嘆きの歌に希望の御言葉が加わりながら、現在の長い詩歌へ発展したと考えられています。

(2)神殿、会堂、教会での用い方

 前口上に記されている「指揮者によって」という御言葉には、この詩が、指揮者を必要とする規模が大きい祭儀で用いられたことが示されています。また「暁の雌鹿」という御言葉は古代の楽器であったと考えられているため、この御言葉にも楽器を用いる大規模な祭儀でこの詩が歌われていたことが示されています。

またこの詩は、信仰共同体や個人が他者との執り成しを願う祭儀で歌われたと考えられています。しかし内容が多岐に渡っているため、実際には、一度の祭儀で22編全体が歌われた時もあり、一部分が歌われた可能性もあると言われています。またユダヤ教の資料によりますと、長い詩歌が祭儀に用いられる時には、冒頭の一段落だけを歌って後の部分を省略することもあったと伝えられています。このため、新共同訳聖書の翻訳で行間が空いている箇所は、賛美歌の節を区切る意味があると考えられています。

 詩編がこのように用いられていたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら現代の教会においても、詩編の小節が長い場合は一部分を交読することがあるからです。また小節数が多い讃美歌は、節を省いて歌うこともあります。この意味をおぼえて、交読詩編や詩編歌、賛美歌の小節の選び方等を、それぞれの教会の伝統にそくして柔軟に考えることの大切さを心に留めたいと思います。

(3)旧約・新約聖書・祭儀(礼拝)との関わり

 前掲致しました「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(原語=エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ/2節)という詩節は、主イエスが十字架上で息を引き取る直前におっしゃったお言葉です。この他にも「呻き」(=ヨブ記2章24節)、「叫び」(=士師記3章9節)、「虫けら」(=イザヤ書41章14節)、「主に頼んで救ってもらうがよい」(=マタイ27章43節)、「母の胎にあるときから」(=エレミヤ書1章5節)をはじめとして、この詩編の御言葉は、列王記下巻、エゼキエル書、アモス書、ダニエル書、ミカ書など、他の書物にも多く用いられています。このように並行箇所が多いため、旧約聖書の他の書物が祭儀に用いられる時に22編の並行箇所の詩節が歌われていた可能性もあります。

 このように他の御言葉に関連する詩節が歌われていたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、礼拝で与えられた聖書の御言葉に基づいて讃美歌を歌い、内容が関連する詩編を交読しているからです。この意味をおぼえて、聖書の御言葉を中心に交読詩編や讃美歌が整えられ、礼拝全体で神の救いの御業を受け継ぎ、伝える民とされていることの大切さを心に留めたいと思います(31〜32節参照)。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 19:45
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