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聖書研究会 「詩編11〜12編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編1112

2017年3月19日 渡辺善忠

 

 詩編11〜12編の前書きに記されている「指揮者によって」という御言葉には、この二編が、指揮者を必要とする多くの人数で歌われていたことが示されています。

また「ダビデの詩」という御言葉には、この詩が、詩歌に秀でていたダビデに捧げられたことが示されています。さらに12編の前書きに記されている「第八調」は古代の音階のことであり、「賛歌」という御言葉にはこの詩が神殿の祭儀で歌われていたことが示されています。この意味をおぼえながら、各詩の意味を辿りたいと思います。

 

詩編11編

 冒頭の「主を、わたしは避けどころとしている」(1節)という御言葉には、この詩が神への信頼を土台とする歌であることが示されています。「避けどころ」という御言葉は神への信頼をあらわす詩編でしばしば用いられているため、この言葉は、詩編全体が編纂された紀元前6〜5世紀の慣用句であったと考えられています。

 また「世の秩序が覆っている」(3節)という御言葉は、詩編でここだけに記されているため、この言葉は原詩に遡る可能性があります。この御言葉の歴史的背景を確定することは難しく、「秩序が覆る」という御言葉の原意は「基が覆される」という意味であるため、この御言葉は普遍的な意味で用いられていると言われています。

 さらに「聖なる宮」(4節)という御言葉はエルサレム神殿をあらわし、「災いの火」、「燃える硫黄」(6節)という御言葉は、創世記19章のソドムとゴモラの古事に類似しているため、この詩の原詩は第一神殿で歌われていたとも言われています。

 これらの可能性を身近な意味に照らして考えますと、「世の秩序が覆る」とは、政治などの国の体制が変わる意味があり、「聖なる宮」は教会を示す意味があるため、この詩には、歴史の荒波を越えて、神が信仰者を導いておられる御業が示されていると言えましょう。この意味を心に留めて、古の詩によって、神への信頼を土台として歩む者とされている幸いを感謝して受け入れたいと思います。

 

詩編12編

 この詩には、「言葉」の多面性について歌われています。「偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話します」(3節)という御言葉には、偽りの言葉を口にすることを戒める意味があります。また「舌によって力を振るおう」(5節)という御言葉は、呪文によって敵対者を滅ぼすような呪術的な背景があると言われています。さらに、「主に逆らう者〜卑しむべきことがもてはやされる」(9節)という御言葉には、世に偽りの言葉が蔓延している状況を告げる意味があります。

 これに対して、「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀」という御言葉には、神の言葉が真実で値高いことが示されています(7節)。また「仰せを守り」という御言葉には、神が御言葉によって信仰者を守って下さる恵みが示されています(8節)

 このように神と人間の言葉の対照性が詩的に表現されているため、この詩は元々、箴言のような格言が歌われていた古詩に遡る可能性があると考えられています。

 言葉の多面性が歌われていることは、私たちにとって大切な意味があります。なぜならこの詩には、自分の言葉を慎み、聖書の御言葉を神の言葉として受け入れることの大切さが示されているからです。この意味をおぼえて、神の言葉と世俗の言葉を聴き分ける信仰の耳を授けられるように祈り合うと共に、聖書の御言葉を学び続けることの大切さを心に留めながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編52編、143編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編52編、143編

2017年2月19日 渡辺善忠

 

詩編143編(2月19日・公現節第七主日)

2月19日はハイデルベルク信仰問答51に記されている神の赦しの御業について学ぶため、この日は、神の救いと赦しを祈り求め、人々を悔い改めへ導くために広く用いられている詩編143編を交読致します。

 143編は、敵からの救いを神に願う個人の詩が、神の救いの御業に応える悔い改めの詩歌として発展した後に、神殿の祭儀で用いられるようになったと考えられています。この詩は作者がダビデに冠せられているため、原詩はイスラエルに統一王国が築かれた時代に遡ると考えられています。こうした経緯があるため、「敵」という言葉が収められている箇所(3、9、12節)は古い時代に由来し、悔い改めを促す箇所(2、7〜8、10〜11節)は、神殿の祭儀や会堂の礼拝で用いられるようになった時期に加えられた可能性があると言われています。

 この詩編が広く用いられるようになった後は、こうした歴史的な背景を超えて、人間の普遍的な罪を示す歌として理解されるようになりました。この意味は「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にいません」(2節)という御言葉に示されています。なぜならこの御言葉には、旧約聖書のヨブ記に伝えられている「なぜ義人が苦難を受けるのか」という内容をはじめとして、聖書全体に示されている原罪(全ての人間に罪があるという理解)が示されているからです。この意味を心に留めて、神が私たちの罪を赦すために御子イエスを十字架に架けて下さった御業をおぼえつつ、143編を交読致しましょう。

 

詩編52編(2月26日・公現節第八主日)

 2月26日はハイデルベルク信仰問答52に示されているローマの信徒への手紙の御言葉によって、神の力に信頼して歩むことの大切さを学びます。詩編52編には、神の慈しみに信頼して歩むことの喜びが歌われており、ハイデルベルク信仰問答の学びを締め括るにふさわしいと考えたため、この詩編を交読することに致しました。

 前書き(1〜2節)には、サウル王に命を狙われるようになったダビデが、祭司アヒメレクのもとに身を寄せた出来事がこの詩の由来であると伝えられています。サムエル記上巻には、ダビデが神の前に正しく歩んでいたにも関わらず、サウル王がダビデを疎んじ、命を狙うようになったと伝えられています。このため古の詩人は、前半(3〜9節)を自分の力を誇るサウルへの批判として、後半(10〜11節)を神に信頼しているダビデを守る意味で詠んだと考えられています。

 52編にはこのような古事が背景にありますが、この詩は、神に従う者と、自分の力を誇示する者との対比に加えて、全ての人間に、神に信頼する思いと自分の力に頼る思いがあるという象徴的な意味で理解されるようになりました。この意味を礎として教会では、「神の家(神殿)にとどまります」という御言葉を、教会に留まり、礼拝の時に神の御許に繰り返し立ち返るという意味で理解しています。

 この意味を心に留めて、神が御子イエスの十字架と復活によって私たちを救って下さった御業に信頼し、礼拝で繰り返し神の御許へ立ち返る者とされるように祈り合いながら、ハイデルベルク信仰問答の学びを締め括りたいと思います。

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聖書研究会 「詩編145編、32編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編145編、32編

2017年1月15日 渡辺善忠

 

詩編145編(1月22日・公現節第三主日)

 1月15日と22日はハイデルベルク信仰問答45〜47の「主の祈り」について学びますので、1月15日の合同礼拝では祈りの素朴な内容が歌われている65編を、22日は神を賛美し、御心に従うことの喜びが歌われている145編を交読致します。

 145編は、詩編全体を代表する賛美の歌として、ユダヤ教でも教会でも広く用いられています。第一神殿時代の王であったダビデに帰されている詩編の多くは苦悩を歌う内容ですが、この詩だけは「賛美・ダビデの詩」と冠せられています。このため145編は、神殿の祭儀が安定して行われていた第二神殿時代に創られ、神殿の祭儀や会堂の賛美歌として用いられるようになったと考えられています。

 この詩が第二神殿時代に作られたことは、原詩がヘブライ語のアルファベットによる「いろは歌」であることにも示されています。なぜならこの詩の「いろは歌」は、素朴な数え歌が技巧的に発展した歌であるからです。また「わたしの王、神よ、あなたをあがめ、世々限りなく御名をたたえます」(1節)、「すべて肉なるものは、世々限りなく聖なる御名をたたえます」(21節)という冒頭と結尾の御言葉には、第二神殿時代のユダヤ教が、イスラエル以外の人々へ開かれていたことが示されています。

 このような背景は、私たちにも大切な意味があります。なぜなら教会は、洗礼を受けて教会員となった方々を中心として、多くの方々を迎え入れる開かれた信仰共同体であるからです。この意味を心に留めて、私たちが多くの方々をお迎えする器として用いられるように祈り合いながら、145編を交読致しましょう。

 

詩編32編(1月29日・公現節第四主日)

 1月29日は交換講壇日として、牛込払方町教会の山ノ下恭二牧師をお招きすることとなりました。聖書箇所はイザヤ書54章10節、第二コリント書4章16〜18節で、「外なる人が滅びても」という説教題に基づいて詩編32編をお選び頂きましたので、詩編の学びによって山ノ下先生をお迎えする備えを致したく思います。

 32編の1〜7節は悔い改めを主題としており、「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」(1節)という願いや、「主にわたしの背きを告白しよう」(5節)という志には、信仰者が神へ立ち返る道が示されています。

また後半の「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう」(8節)という御言葉には、神が詩人を守り導いて下さる御業が示されており、「神に従う人よ、主によって喜び踊れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ」(11節)という御言葉には、罪が赦された信仰者の喜びが伝えられています。このような構成であるため、前半の1〜7節は祭儀に参加した信仰者が罪を告白する言葉として、後半の8〜11節は司式者が信仰者へ罪の許しを宣言する言葉として歌われていたと言われています。

32編がこのように歌われていたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら、会衆の罪の告白に応えて司式者が罪の許しを告げることは、ユダヤ教から教会へ受け継がれた伝統であるからです。この意味を心に留めて、礼拝において私たちの罪を心の内で神に告白すると共に、神が私たちの罪を赦し、喜びで満たして下さる恵みを感謝して受け入れながら、信仰生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編29編、62編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編29編、62編

2016年12月18日 渡辺善忠

 今年の待降節からクリスマスにかけては、「信仰告白と降誕物語」と題して、新約聖書の使徒書簡や福音書に収められている信仰告白の韻文とルカ福音書のクリスマス物語を辿りながらクリスマスへ備えています。このため、待降節からクリスマスにかけては、信仰告白の内容にそくした詩編を交読することに致しました。今月はこの意味をおぼえながら、待降節第四主日とクリスマス礼拝の詩編を学びます。

 

詩編62編(12月18日・待降節第四主日)

 この日は、フィリピの信徒への手紙2章に伝えられている信仰告白とルカによる福音書1章に収められているザカリアが歌った賛歌を辿りながら礼拝を守ります。フィリピ書の信仰告白とザカリアの賛歌はいずれも、信仰共同体が礼拝で信仰を告白し、神への信頼をあらわす歌として用いられていました。このため待降節第四主日には、神への信頼が歌われている詩編62編を交読することに致しました。

 詩編62編には、信仰共同体で混乱や動揺が起こっている中で神への信頼を持ち続けることの大切さが歌われています。「人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの」(10節)という御言葉には、詩人が孤立していた状況が示されています。また「力が力を生むことに心を奪われるな」(11節)という御言葉には、不信仰な人々が共同体の中で徒党を組んでいた悪しき背景があったと考えられています。詩編62編にはこのような背景があるため、この詩は、孤立して苦しみの中を歩んでいた詩人の嘆きの歌が発展し、シナゴーグ(会堂)からイスラエル全体へ至るまで、混乱に陥っている信仰共同体全体への警告として歌われるようになったと考えられています。

 詩編62編にこのような背景があることは、フィリピ書に収められている信仰告白にも通じる意味があります。なぜなら初代教会の人々は、様々な困難の中で教会が堅く建てられるために、信仰の基本的な理解を信仰告白として整えたからです。この意味を心に留めて、詩編と信仰告白の歌に導かれてクリスマスへ備えましょう。

 

詩編29編(12月25日・クリスマス礼拝)

 ルカによる福音書2章14節には、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天使たちの賛美が収められています。この歌は新約聖書が書かれたギリシャ語から「Gloria in excelsis Deo」というラテン語に訳され、賛美歌263番ではラテン語の歌詞が「グローリア、インエクセルシスデオ」という片仮名で歌い継がれています。この歌詞にちなんで、クリスマス礼拝では「栄光と力を主に帰せよ」(1節)、「主が民を祝福して平和をお与えになるように」(11節)という御言葉が収められている詩編29編を交読することに致しました。

 詩編29編は、神を賛美する歌(1〜2節)と平和を願う素朴な祈り(11節)に挟まれて、自然を統べ治める神の御力が讃えられています(3〜10節)。神の御力を讃える部分は、パレスチナ地方の土着の神々への賛歌から影響を受けていると言われています。このため、詩編29編の原詩は古い時代に遡ると考えられています。このような背景があるため、詩編29編は、自然を治める神を讃えた素朴な詩が、隣国との戦乱の中で発展して、現在の形に至ったと考えられています。

 詩編29編にこのような背景があることは、私たちにも関わりがあります。なぜなら古代から現代に至るまで、世界にも私たちの身近なところでも絶え間なく争いが起こっているからです。この意味を心に留めて、礼拝において神に栄光を帰し、平和を築く器として用いられるように祈り合いながら、クリスマスを喜び祝いましょう。

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聖書研究会 「詩編31編、81編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編31編、81編

2016年10月16日 渡辺善忠

 

詩編31編(10月23日・召天者記念礼拝)

 「まことの神よ、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(6節)という御言葉は、ルカ福音書では、主イエスが十字架上で息を引き取られる直前に、ご自身の生命を父なる神へ委ねたお言葉として伝えられています(ルカ福音書23章46節)。このため詩編31編は、多くの教会で受難節(棕櫚の主日)に交読されています。またこの御言葉は、受難節という暦を超えて広い意味でも理解されており、信仰者が神へ生命を委ねることの大切さを示す詩編としても歌い継がれています。この意味をおぼえて、今年は召天者記念礼拝の時にこの詩編を交読することに致しました。

 この詩編の前半(2〜14節)には、苦難に直面している詩人が神へ信頼を持ち続けていることが、「砦の岩、城砦、大岩、砦」(3〜4節)という御言葉に示されています。また「空しい偶像に頼る者」(7節)や「わたしの敵」(12節)という御言葉には、他の宗教の人々を指す意味があり、「骨は衰えていきます」(11節)、「壊れた器を見なします」(13節)という御言葉には、詩人が病気であったことが示されています。さらに後半(15〜25節)では、苦難の中で神に信頼することの大切さが歌われています。このような内容であるため、詩編31編の原詩は、偶像に満ちていたバビロンで病気を患った詩人が、神への信頼を歌った歌であったと考えられています。

 このような背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、様々な困難に直面する時や、病気の時にこそ、私たちに命を授けて下さった神への信頼に立ち続けることが大切であるからです。この意味を心に留めて、私たちに日々新しい命を授けて下さっている神へ感謝を捧げながら、この詩編を交読致しましょう。

 

詩編81編(11月20日・伝道礼拝)

 この詩編は、祝祭的な神を讃える歌で始まります(2〜6節)。前書きの「指揮者」という御言葉には、この歌が、指揮者を必要とする多くの人数で歌われたことが示されています。また「ギティト」は、楽器や調性(音階)を指定する意味の言葉であったと言われています。このような前書きがあるため、詩編81編は元々、神殿の大掛かりな祭儀で用いられるために編纂された歌であると考えられています。

 また、7〜11節の段落は、「わたしに聴き従え」という神のご命令が主題であるにも関わらず、12〜15節には、神の声に聴き従わなかったイスラエルの歴史が歌われています。さらに16〜17節には、神の御言葉を聴き、御言葉を信頼しつつ歩む信仰者へ、神が豊かな恵みを与えて下さる約束が伝えられています。

 この内容は、神殿の祭儀のみならず、シナゴーグ(会堂)の礼拝にも、教会の礼拝にも通じる広い意味があります。このため詩編81編は、ユダヤ教の信仰の歴史を受け継いだ初代教会の礼拝でも、早い時期から歌われていたと考えられています。

このような背景をふまえて、詩編81編全体の内容を私たちの礼拝に照らしますと、礼拝の始まりで神を讃える「頌栄」(2〜6節)、聖書の御言葉(説教)に聴くことを勧める言葉(7〜11節)、信仰の歴史を振り返り、悔い改めを促す言葉(12〜15節)、御言葉に聴き従う者への祝福の約束(16〜17節)という礼拝全体の構成にそのままつながる意味があります。この意味をおぼえて、旧約聖書の時代から現代に至るまで、礼拝の大切な骨組みが数千年に渡って受け継がれている信仰の歴史を心に留めながら、詩編81編を交読致しましょう。

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聖書研究会 「詩編40編、99編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編40編、99編

2016年月1日 渡辺善忠

 

詩編40編(9月25日・ハイデルベルク信仰問答38)

 この詩編の前半(1〜12節)には、詩人が神の救いを体験したことを人々に伝えるために、この詩編が「新しい歌」(4節)として作られたと伝えられています。

 前半の中ではまず、「わたしたちに対する数知れない御計らい」(6節)という御言葉に大切な意味があります。なぜならこの御言葉には、詩人が助けられた出来事が、個人的な救いではなく、イスラエルの歴史の一つであることが示されているからです。

 また、「ラハブ」(5節)という御言葉は、固有名詞ではなく、「他の神々」、「高ぶる自信家」という意味があるため、この詩編は、イスラエルの人々が、他の神々や高ぶる人々に囲まれていた紀元前6世紀の捕囚期に編纂されたと考えられています。

さらに7節には、いけにえ、穀物、供え物を用いる祭儀ではなく、「わたしの耳を開いてくださる」神の御業への感謝が伝えられており、「巻物」(8節)という御言葉は、捕囚期に記された書物を指す意味があります。このため詩編40編は、現在の旧約聖書の元の書物が捕囚期に書かれ始めた時期に編纂されたと考えられています。

 また後半(13〜18節)には、救われた詩人が繰り返し罪に誘われる中で、救いを求める祈りへ向かったと伝えられています。この御言葉には、洗礼によって罪が赦された私たちが、日常の歩みにおいて罪に悩みながら、礼拝において繰り返し罪の赦しを祈り求めることの大切さが示されています。

この意味を心に留めて、神が私たちを、ご自身の救いの歴史に加えて下さっている恵みに感謝を捧げると共に、礼拝において、罪の中から繰り返し神に立ち返る者とされるように祈り合いながら、この詩編を交読致しましょう。

 

詩編99編(9月11日・ハイデルベルク信仰問答36)

 詩編99編は、神を讃える普遍的な言葉で構成されているため、神殿の祭儀では、現在の「頌栄」のような賛歌として日常的に用いられていたと考えられています。

 「主こそ王。諸国の民よ、おののけ」(1節)という御言葉は、神がイスラエルの人々を捕囚から解放して下さった御業を周辺諸国に誇り高く伝える意味があるため、この詩は、エルサレムに第二神殿が建てられた紀元後6世紀後半に現在の形に編纂され、神殿の祭儀で歌われるようになったと考えられています。

 この詩が神殿で歌われたことは、「足台に向かってひれ伏せ」(5節)、「聖なる山に向かってひれ伏せ」(9節)という御言葉に示されています。なぜなら「ひれ伏せ」という御言葉は「拝する」(礼拝する)という意味があるからです。また「ケルビムの上に御座を置かれる」(1節)、「足台」(5節)という御言葉はいずれも、神殿で用いられていた祭具を指す意味があるため、これらの御言葉にも、この詩が神殿の祭儀で歌われたことが示されていると考えられています。

 さらに6〜8節には、モーセとアロンに率いられた出エジプトの出来事が簡潔に歌われています。ユダヤ教は出エジプトの時期に始まったため、この詩の原詩は、イスラエルに王が立てられた時の任職式で用いられていた可能性もあると言われています。

 このような背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、主日礼拝ごとに神を讃える「頌栄」を歌っており、讃美歌には神の救いの歴史を伝える役割があるからです。この意味を心に留めて、私たちが神をほめ讃える器として豊かに奏でられるように祈り合いながら、詩編を交読致しましょう。

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聖書研究会 「詩編9〜10編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編9〜10編

2016年7月1日 渡辺善忠

=アルファベットによる詩=

 詩編9〜10編の冒頭に記されている、「アルファベットによる詩」という言葉には、二つの詩編が、ヘブライ語のアルファベットを行頭とする詩であることが示されています。このようなタイプの詩編は、日本語の「数え歌」にあたるため、9〜10編は元々、信仰の内容をおぼえるための歌として整えられたと考えられています。

 アルファベットを日本語に当てはめることは不可能ですが、繰り返し詩編を交読することによって、詩の内容を心に深く留めるように努めたいと思います。

 

詩編9編

 詩編9編と10編は、苦難の中でも神に信頼を持ち続けることの大切さを伝える一続きの詩であると考えられています。二つの詩は内容が頻繁に変わるため、古い時代の原詩が、前述のアルファベットの配列に沿うように整えられたと考えられています。

 個人をあらわす「わたし」(2、3、5、14節)という言葉が繰り返し記されていますが、この詩全体は神に信頼を寄せる共同体の歌として収められています。また、 「立ち上がってください、主よ」(20節)という御言葉は、古代に移動式の祭壇を担ぐ時の言葉であったと言われています。このため9編は、神への信頼を歌った個人の歌が共同体の歌として発展した後に、アルファベットの詩に至ったと言われています。

 さらに「シオンにいます主をほめ歌い」(12節)、「おとめシオンの城門で(15節)という御言葉はいずれも、シオン(=エルサレム)の神殿が信仰の中心地であることを示す意味があります。このため詩編9編は、エルサレムの第一神殿が滅ぼされて、捕囚時代を経た後に、第二神殿が建てられた時期に発展したと考えられています。

 このような背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら、古代のイスラエルの人々が神殿を信仰の中心地と考えていた姿は、私たちにとっては、教会を中心として信仰生活を歩むことであるからです。この意味をおぼえて、「教会」という共同体として信仰生活を守ることの大切さを心に留めたいと思います。

 

詩編10編

 冒頭に記されている「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」(1節)という御言葉は、イスラエルの多くの人々が、エルサレムから「遠く離れて」バビロンで苦難の中を歩んでいた時代を背景に記されたと考えられています。また、「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」(11節)という御言葉にも同じ状況が示されています。この内容は詩編9編にも通じるため、9編と10編はいずれも、紀元前6世紀中頃に発展したと考えられています。

 さらに「あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い」(5節)という御言葉や、  「主は世々限りなく王」という御言葉は、神が全ての国々を治めておられる御業を伝える意味があります。これらの御言葉は、9編と10編が現在の形に編纂された紀元前6世紀の後半に加えられた可能性があるため、二つの詩編は、第二神殿の祭儀で用いられるようになった時期に、現在の形にまとめられたと考えられています。

 二つの詩編がこのような経緯でまとめられたことは、時と場を越えて、全ての時代の信仰者にとって大切な意味があります。なぜなら、地上の全ての民を創られた神は今も、全ての国々を治めておられるからです。私たちはこの意味をおぼえて、世俗の為政者を越えて世の国々を司っておられる神の御業を見出す者とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編7〜8編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編

2016年6月19日 渡辺善忠

 

詩編7編

前書きに記されている「シガヨン」という言葉はヘブライ語の「よろめく」という動詞に由来すると考えられています。「よろめく」という御言葉は、テンポやリズムが頻繁に変わるという意味が含まれているため、この詩は変化に富んだ曲想で歌われたと言われています。また「ベニヤミン人クシュ」は、旧約聖書の記述には登場しないため、この詩は、旧約聖書以外の文書の影響を受けている可能性があります。

 この詩は全体に、「潔白の主張」と呼ばれる嘆願と、敵から守ることを願うことの二つの祈りが繰り返されています。「潔白の主張」が記されている4〜6節は、ヨブ記の31章に通じる形式と内容であるため、この御言葉は、神殿で嘆願を捧げる時の定まった言葉を詩的な表現であらわしたものであると考えられています。

 また、敵からの解放を祈る内容は、士師(古代の武将)が活躍した時代からダビデとソロモンによって統一王国が築かれる時代にかけては、戦いに赴く者が、勝利を祈願する祭の祭儀で用いられていた祈りの言葉であったと考えられています。

このような背景があるため、この詩は、エルサレムに第一神殿が築かれた時代の前後から、神殿の祭儀が定期的に行われるようになった時代にかけて整えられ、第二神殿時代に詩編に編纂されたと考えられています。

私たちはこの意味を新約時代の理解で受け継ぎ、礼拝においては、罪を告白する祈りの言葉として、また、困難に直面する時には、神が私たちをあらゆる「敵」から守って下さる御業を信頼する歌として、この詩編を交読したいと思います。

 

詩編8編

 詩編8編に記されている「指揮者によって」、「ギティト」(弦楽器)という言葉には、この詩が神殿の公の祭儀で、大勢の人数で歌われたことが示されています。

 この詩は詩編150編全体の中で最初の「賛歌」であり、前後の7編と9編の嘆願に挟まれているため、詩編を現在の形に編纂した人々は、この詩によって、嘆願者に、神へ賛美を捧げることの大切さを示したと考えられています。

 また、導入句(2節)と結び(10節)は整えられた同じ言葉であるため、この詩はエルサレム神殿の祭儀が発展した時代に編纂されたと考えられています。

さらに「天に輝くあなたの威光」(2節)、「月も、星も、あなたが配置なさったもの」、「御手によって作られたものをすべて治めるように」という御言葉は、神の御業を宇宙的な理解で表現した言葉です。この理解は、イスラエルが新バビロニア帝国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンで捕虜として歩んだ時代に発展しました。このように、定型句が用いられていることと、神の御業について発展した理解が示されているため、この詩は、エルサレムに第二神殿が築かれた時代の歌であると考えられています。

 初代教会は、この詩に歌われている「創造の神への賛歌」を、主イエスが地上の全てを治めておられることへの誉め歌として理解し、この理解は代々の教会に受け継がれてきました。私たちはこの意味を心に留めて、御子イエスが、父なる神の創造の御業を受け継ぎ、私たちを含めて、地上の全ての被造物を守り導いておられる恵みを感謝して受け入れながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会「詩編5〜6編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編5〜6編

2016年5月15日 渡辺善忠

 

詩編の前書きについて
 詩編5〜6編に記されている「指揮者によって」という言葉には、二つの詩編が大勢で歌われたか、指揮を必要とするような複雑なリズムであったことが示されています。また「笛に合わせて」(5編)という言葉と、「伴奏付き」「第八調」(6編)という言葉には、二つの詩編が大勢で歌われたか、複雑な旋律であったことが示されています。さらに、両方の詩編に記されている「賛歌」という名称は、会衆が歌う賛美歌のようなタイプの歌、「ダビデの詩」はダビデにちなんだ歌詞を示す意味があります。
このような指定があるため、詩編5〜6編は、神殿の公の祭儀に用いられていたと考えられています。これらの前書きにも、詩編が楽譜であったことが示されています。
 
詩編5編
 5編の前書きには「ダビデの詩」と記されていますが、この詩は一般的な内容であるため、罪を犯したダビデにちなんだ嘆きの歌であると考えられています。
 「朝ごとに」(4節に二回)という御言葉や「あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し」(8節)という御言葉には、この詩編が、エルサレム神殿で定期的に祭儀が行われていた時代の歌であることが示されています。また「偽って語る者」(7節)という御言葉と「彼らの口は正しいことを語らず」(10節)という御言葉には、偽証によって詩人が罪に定められたことが示されています。このような意味があるため、この詩編は、イスラエルが比較的平穏な時期に、自分の潔白について神殿に申し立てる時の祈りに用いられた式文であると考えられています。
 パウロは、悪人の振る舞いを示すために、この詩編の御言葉をローマの信徒への手紙3章13節に引用しました。このため初代教会時代の人々は、罪を嘆き、悔い改めに導かれる御言葉として、この詩編を理解していたと考えられています。この意味を心に留めて、詩編5編の御言葉によって悔い改めに導かれたいと思います。
 
詩編6編
 「主よ、癒してください」という御言葉や「死の国に行けば」という御言葉には、この詩が重い病の癒しを願う祈りとして用いられていたことが示されています。この詩には詩人が罪を犯したことが記されていないため、この詩は、正しい信仰者が病に陥った時の祭儀に用いられていた可能性があると考えられています。
神殿で神に仕えていたサドカイ派の人々は、死者が復活することがないと考えていました。このため、「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」(6節)という御言葉には、サドカイ派の人々が、死によって全てが終ると考えていた理解が反映されています。
しかし、神から遣わされた御子イエスは、病を癒され、復活の命によって陰府にいる人々を永遠の命へ招いて下さいました。このため、教会ではこの詩編を、神と私たちを主イエスが執り成して下さる意味で受け入れてまいりました。この意味を心に留めて、生と命を司っておられる神が、私たちを救って下さるために御子イエスを遣わされた御業に心から感謝しつつ、信仰生活を歩み続けてまいりましょう。
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聖書研究会「詩編3〜4編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編3〜4編

2016年4月17日 渡辺善忠
 
 先月から、まだ取り上げていない詩編を順番に辿っておりますので、今月は引き続き3〜4編を学びたいと思います。
 
詩編の前書きについて
 詩編3〜4編をはじめとして、多くの詩編には前書きが付されています。この中の「ダビデの詩」という言葉は、「ダビデ作」という意味ではなく、「ダビデにちなんだ」という意味であると言われています。また「賛歌」は神殿で歌われる歌であり、「伴奏付き」という言葉は、伴奏を付けることを指示する言葉でした。さらに3〜4編の途中に記されている「セラ」は、休符(歌唱を休む箇所)であったと考えられています。
これらの前書きによって、詩編が楽譜であったことを心に留めたいと思います。
 
詩編3編
 前書きには、「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と記されていますが、この詩には、一般的な嘆きが歌われています。このため3編は、ダビデに象徴されるような個人的な嘆きが歌われていた古い詩が発展して、多くの人々に共通する内容が神殿の祭儀で歌われるようになったものであると考えられています。
 古い原詩が発展してこの詩編が編纂されたことは、「彼に神の救いなどあるものか」という御言葉に示されています(3節)。なぜならこの御言葉は、ダビデよりも後代に、イスラエルの人々がバビロンで捕虜とされていた時代を背景として記された言葉であるからです。また「多くの民に包囲されても」という御言葉も、ダビデよりも後代に、イスラエルが戦乱に巻き込まれていた時代の言葉であると考えられています。
このような背景があるため、3編は、個人の嘆きを歌う素朴な詩が発展し、共同の祭儀で歌われるようになった詩であると考えられています。この意味を心に留めて、神が私たち一人一人の嘆きを顧みて下さる恵みを、感謝して受け入れたいと思います。
 
詩編4編
 3編には「賛歌」という御言葉だけが記されていることに対して、4編は「指揮者によって。伴奏付き、賛歌」と記されています。このため、3編は個人的な祭儀の時に歌われ、4編は多くの人々が祭儀を捧げる時に歌われたという説もあります。
 この詩にも、ダビデの歩みが示されている御言葉がないため、一般的な嘆きの詩が発展して神殿で歌われるようになり、ダビデの名が後代に付されたと言われています。
 この中の、「いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか」という御言葉には、社会的に地位がある者が辱めを受けていたことが示されています(3節)。また「ふさわしい献げ物をささげて、主に寄り頼め」という御言葉には、原詩の作者が神殿で祈願を捧げることが出来る立場であったことが示されています(6節)。このような背景があるため、4編は、高位の為政者が大規模な祭儀を捧げる時の歌であったと考えられています。この意味を心に留めて、4編の御言葉に導かれて、現代の為政者が神の御前に心を低くする者とされるように祈り合いましょう。
author:sugamo-church, category:聖書研究, 18:33
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