RSS | ATOM | SEARCH         
聖書研究会 「詩編18編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編18編

2017年12月17日 渡辺善忠

 

 1月はすでに学んだ詩編を交読するため、今月はまだ学んでいない詩編18編を学びます。この詩編は比較的長いため、18編のみを丁寧に学びたいと思います。

 

詩編18編

(1)全体の意味と成立過程について

 この詩編には、戦いの出来事を伝える以下の御言葉が記されています。「主はわたしの岩、砦、逃れ場」(3節)、「主の矢は飛び交い」(15節)、「敵は力があり」(18節)、「あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし」(30節)、「手に戦いの技を教え」(35節)、「敵を追い、敵に追いつき」(38節)、「敵からわたしを救い」(49節)。これらの御言葉の他にも戦いを背景とする言葉が多く収められているため、この詩の原詩は、イスラエルの内外の戦いに赴く際の様々な祈願の歌であった考えられています。

 また18詩全体は、サムエル記下22章に収められているダビデの詩や詩編116編、144編に類似していることに加えて、46節とミカ書7章17節、34節とハバクク書3章19節、31節と箴言30章5節にも並行句があるため、これらの御言葉はいずれも、神殿祭儀の式文であった考えられています。

 さらにこの詩には、戦いを直接的な背景としていない素朴な苦しみや悩みを伝える御言葉も収められています。これらの御言葉には、古の信仰者や詩人が困難に直面していた時の素朴な嘆きが伝えられています。

このように、18編には神殿と一般的な信仰生活の両面を背景とした御言葉が用いられているため、この詩編は、戦いに赴く時の祈願や信仰者の素朴な嘆きを託した様々な原詩が、ダビデが王であった時代にユダヤ教の祭儀で用いられるようになり、第二神殿時代以降に現在の長い形に編纂されたと考えられています。

 

(2)「戦い」の歴史的な背景について

 前口上に記されている「主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から救い出されたとき」という御言葉は、サムエル記下22章1節に並行箇所があるため、この詩の原詩の一つは、ダビデとサウルの戦いを背景とした歌であったと考えられています。しかし、ミカ書やハバクク書に並行箇所がある御言葉は、イスラエルの国全体が他国と戦っていた時期に記されたと考えられています。このため18編に伝えられている「戦い」の年代や内容は一様ではなく、時と場は多岐に渡っていると言われています。

 戦いの背景が多様であることは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、個人の内的な戦いや親しい関係の人々と諍いを経験することがあり、古代から現代に至るまで、国や民族の争いは絶えることがないからです。このように「戦い」には、歴史的背景を越えた広い意味があるため、18編を現在の形に編纂した人々は、「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う」(2節)という冒頭の御言葉によって、人間の力を捨てて神のみに信頼することの大切さを歌ったと考えられています。

 

(3)ダビデとメシア預言

この詩の締め括りに記されている「油注がれた人を、ダビデとその子孫をとこしえまで慈しみのうちにおかれる」(51節)という御言葉には、ダビデの子孫に「油注がれた人」=メシア(救い主)があらわれることを告げる預言の意味があります。「油注がれた人」という御言葉は元々、王が即位する時に祭司に油を注がれて任職される意味の言葉でした。しかしイスラエルが滅ぼされた紀元前6世紀以降は、救い主を待ち望むことを伝える希望を伝える意味で理解されるようになりました。この意味はユダヤ教から初代教会に受け継がれ、この御言葉は、神の御子イエスがメシアとしてお生まれになる預言として理解されるようになりました。このためマタイ福音書の冒頭には、ダビデの子孫として神の御子イエスがお生まれになったことを示す系図が収められています。この意味を心に留めて、詩編18編の御言葉によって、神が、戦いが絶えない世界を救う方として御子イエスを遣して下さった恵みに感謝を捧げながら、クリスマスへ備えましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 00:20
comments(0), trackbacks(0), pookmark
聖書研究会 「詩編24、27編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編24、27編

2017年11月12日 渡辺善忠

 

 今月は12月17日に交読する27編と24日のクリスマス礼拝で交読する24編を学びます。

 

詩編27編(12月17日)

 12月17日はマタイによる福音書1章18〜25節の御言葉によって救い主を待ち望むつつクリスマスへ歩みますので、「主を待ち望め」(14節)という御言葉に導かれて27編を交読することに致しました。

 「主を待ち望め」という御言葉は、イスラエルの人々が危機的な状況の中を歩んでいる時の励ましの言葉として42編や130編にも使われています。27編を含めてこれらの詩編は、イスラエルが滅ぼされて多くの人々がバビロンで捕虜とされていた時代に記されたと考えられています。このため「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」という御言葉や、「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう」という御言葉にはいずれも、イスラエルを支配していた新バビロニア帝国の人々を恐れるなという意味があります(1節)。また「命のある限り、主の家に宿り」という御言葉には、エルサレムの神殿から離れていた時期に、「主の家」(=エルサレム神殿)を思い起こしていた人々の気持ちが示されています。さらに「仮庵」、「幕屋」は、エルサレム神殿を失った人々が礼拝を捧げる場をあらわす意味があり、「主よ、あなたの道を示し、平らな道へ導いてください」という御言葉には、捕囚から解放されてエルサレムへ戻る道を求める切なる思いが伝えられています(11節/イザヤ書40章3〜4節参照)。

 このような歴史的背景は、御子イエスがお生まれになった紀元1世紀の時代にも関わりがあります。なぜならイスラエルは紀元前1世紀頃からローマ帝国の支配を受け始め、紀元後70年にはエルサレム神殿がローマ帝国によって再び破壊され、国全体が滅ぼされてしまったからです。

 私たちは幸いに、迫害を受けたり、捕虜とされることはありませんが、様々な力に支配されたり、目に見えない形で迫害を受けることがあるかもしれません。この意味をおぼえて、地上のあらゆる力を恐れることなく、主を待ち望む信仰者として歩み続けることの大切さを心に留めながら27編を交読致しましょう。

 

詩編24編(12月24日)

 12月24日は17日に引き続き、マタイによる福音書1章18〜25節の御言葉によって主イエスこそが真の王であることをおぼえながらクリスマス礼拝を守る予定ですので、「栄光に輝く王」(7〜8節)という御言葉が収められている詩編24編を交読することに致しました。

 「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」(3節)という御言葉には、信仰と政治の両面でイスラエルを治める人物があらわれることへの期待が示されています。また「主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる」(5節)という御言葉には、神がイスラエルを治める者を守り導く恵みが示されています。さらに「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」(7、9節)という御言葉は、イスラエルの指導者がエルサレムの神殿で任職を受ける時に用いられていたと言われています。この御言葉は後半の7〜10節に二回繰り返されているため、エルサレム神殿の祭儀では「掛け合い」のように歌われていた可能性があると考えられています。

 ネヘミヤ記12章27〜43節には、エルサレムの第二神殿が落成する時に、聖歌隊が城壁の左右に分かれてステレオのような音響で賛美を捧げたと伝えられています。このような記録があるため24編は、大掛かりな祭儀の時に二組の聖歌隊によって歌われたと考えられています。ユダヤ教〜教会の歴史で再び二重合唱が用いられるのは、教会がローマ帝国の国教となった後のことであるため、古代のエルサレム神殿では、早い時期から発展した音楽の様式が用いられていたと考えられています。

 詩編24編にこのような背景があることは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら詩編を交読することは、二組の聖歌隊で詩が歌い交わされたことを受け継ぐ意味があるからです。この意味を心に留めて、詩編24編を高らかに交読することによって、真の王イエス・キリストの降誕を共々に喜び歌いましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 00:15
comments(0), trackbacks(0), pookmark