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聖書研究会 「詩篇61編、63編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編61編63

2019年9月15日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない61編と63編を学びます。

 

詩編61編

「指揮者によって。伴奏付き」という前書きには、この詩編が指揮者を必要とする多人数の合唱と楽器で歌われていたことが示されています。聖歌隊は第二神殿の時代に大きな編成に発展したため、61編は第二神殿が建てられた後に現在の形に整えられたと考えられています。

この詩の作者はダビデに帰されており、2〜6節はダビデ自身をあらわす「わたし」が主語ですが、7〜8節には「王」という三人称が使われており、締め括りの9節には再び「わたし」という言葉が使われています。また「あなたの幕屋」(5節)は神に礼拝を捧げる場所を示す言葉であり、「満願の献げ物をささげます」(9節)という御言葉は、最上の献げ物を神へ捧げる意味があります。このような御言葉が収められているため、61編は、イスラエルの最も偉大な王であったダビデをはじめとする王の働きが守られることを請願する祭儀の時に神殿や大規模な会堂で歌われていたと考えられています。

また「地の果て」という御言葉は、苦難に直面した詩人が「この世の果て」に追い詰められていることをあらわす詩的な言葉です。さらに「高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください」という御言葉には、敵が追い掛けることが出来ないほど高い山へ逃れさせて下さいという意味に加えて、「神が山に宿っておられる」という古代の信仰の理解が示されています。これらの御言葉には、この詩編の元の言葉が、個人が苦難から解放されることを願う素朴な祈りの言葉であったことが示されています。

61編の御言葉にこのような背景があることは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、様々な苦難に直面している中で礼拝に連なっている時に、苦難から解放されることを心の内で祈り願うことがあるからです。また神が山に宿っておられるという古代の信仰者たちの理解は、日本においては、富士山をはじめとする多くの山々が「霊山」と理解されていることに通じる意味があります。

 この意味をおぼえて、私たちにとって神が宿る場所である礼拝を尊ぶと共に、苦難の中を歩んでいる時にこそ祈りと賛美を神に捧げ続けることの大切さを心に刻みたいと思います。

 

詩編63編

 前書きに記されている「ダビデがユダの荒れ野にいたとき」という御言葉は、サウル王が荒れ野でダビデの命を奪おうとした出来事を背景に記されました(サムエル記上23章〜24章参照)。詩編の作者はこの故事をおぼえて、「わたしのからだは乾ききった大地のように衰え」という詩を歌いました。

また「わたしの魂はあなたを渇き求めます」(2節)という御言葉は42編にも使われており、42編はイスラエルが滅ぼされた時代に遡るため、この言葉は詩的表現として広く定着していたと考えられています。

 この詩編には信仰者が神を求めつつ歩むことの大切さが伝えられており、一日の始まりに歌うことがふさわしいため、初代教会(紀元後1世紀中ごろ)はこの詩編が早い時間の礼拝で歌われていたと伝えられています。またこの詩編には、神に信頼することが自分の命よりも大切であることが歌われているため、古代教会(紀元後2世紀〜4世紀)では殉教者を記念するミサ(礼拝)で用いられていました。

さらにこの詩編の後半には、詩人に敵がいたことが歌われています(10〜12節)。この中に収められている「神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように」という御言葉には、神に選ばれた王が任職される時に職務を忠実に遂行する誓いを立てていたことが示されています。この内容は1〜9節の内容とつながりが悪いため、別の詩の言葉が後半に加えられたという解釈もあります。しかし神に選ばれた王がまず神を求めることには大切な意味があるため、この詩編は王が忠実に職務を遂行することを祈り願う祭儀に用いられていたとする理解もあります。

 61編に上記のような背景があることは、全ての信仰者にとって大切な意味があります。なぜなら古の信仰者たちと同様に、私たちも神の導きを祈り求めてから一日を歩み始めることが大切であるからです。また私たちは、神への信頼が自分の命よりも尊いことを常に心に留めるべきでありましょう。

 この意味を心に留めて、一日の始まりに聖書の御言葉をひもとき、祈りを捧げると共に、神が私たちの命を司っておられる御業に信頼しつつ、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 21:13
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