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聖書研究会 「詩編92編、103編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編92編103

2018年2月18日 渡辺善忠

 

 今月は2月4日と11日の礼拝で交読した92編と103編を学びます。

 

詩編92編(2月4日)

 2月4日はヨハネ福音書5章1〜18節の御言葉によって、主イエスが安息日に病を癒された御業を辿りましたので、前書きに「安息日に」と記されている92編を交読致しました。神殿や会堂で安息日に礼拝が守られることが広く定着したのは第二神殿以降(紀元前6世紀後半)であったため、92編は、詩編全体が編纂された紀元前6世紀以降に現在の形に整えられたと考えられています。

92編の編纂者は、神が七日間に渡って天地創造の御業をなさった後に安息なさった出来事を象徴的に示すために、「主」という御言葉を七回用いました。「安息日」という御言葉がこのように説き明かされていることは、旧約聖書が編纂された過程に関わりがあります。なぜなら創世記と詩編はいずれも、紀元前6世紀以降に現在の形に編纂されたからです。天地創造の出来事は他の詩編にも歌われているため、これらの詩編は創世記と同じ時代に編纂されたと考えられています。

またこの詩編には、神に逆らう者が地上にいても、信仰者が完全な安息へ導かれることの約束が示されています。神に逆らう者が地上にいることは、「神に逆らう者が草のように茂り、悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても、永遠に滅ぼされてしまいます」(8節)という御言葉に示されています。また、「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう」(11節)という詩の中の「油を注ぎかけてくださる」という御言葉は、神が信仰者を救いへ導く意味があるため、この御言葉には、信仰者に確かな安息が授けられることを伝える意味があります。

 この内容はいずれも、私たちにとって身近な意味があります。なぜなら私たちは、主イエスが復活されたことを祝う日曜日を安息日として礼拝を守っており、復活の主は私たちの日々の歩みを永遠の安息へつながる時として導いておられるからです。この意味を心に留めて、「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」(1節)という御言葉に導かれて、安息日の礼拝で主への感謝を捧げましょう。

 

詩編103編(2月11日)

 2月11日の礼拝で与えられましたヨハネ福音書5章19〜30節の御言葉には、主イエスが私たちに命を与えて下さる神であることが告げられているため、「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる」(3〜4節)という御言葉が収められている103編を交読致しました。

 旧約聖書には、天地創造の出来事をはじめとして、父なる神が命を授けて下さる恵みが様々な書物で伝えられています。しかし「命を墓から贖い出してくださる」という御言葉に示されているように、死んだ者に命が与えられることについては、書物によって理解が異なります。死者に命が与えられることについて異なる理解があることは、それぞれの書物の元となる資料が書かれた時代に関わりがあります。なぜなら、紀元前6世紀にイスラエルの国が滅ぼされる前の信仰者たちは、素朴な信仰の理解を持っていたことに対して、国が滅ぼされた時代の信仰者たちは、前の世代の人々よりも、死後の歩みについて真摯に考えるようになったからです。このような背景があるため、神が死者に命を与えるという理解は、イスラエルの国が滅ぼされ、再び国が建てられた紀元前6世紀後半以降に発展したと考えられています。

 またこの詩編に収められている「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた」(13節)という御言葉には、創世記の冒頭に伝えられている天地創造の御業が示されています。92編の記述でふれたように、創世記と詩編は紀元前6世紀以降に編纂されたため、103編も創世記と同時期に現在の形に整えられたと考えられています。

 神が命を与えて下さる恵みが、創世記には通常の文体で、詩編では歌の形で伝えられていることは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら礼拝では、聖書の御言葉は通常の文体の説教で語られ、讃美歌では歌によって神の御業が伝えられるからです。この意味をおぼえて、礼拝全体で神の恵みを受け継ぎ、伝えることの大切さを心に留めながら、詩編を交読致しましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 00:24
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