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聖書研究会 「詩編24、27編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編24、27編

2017年11月12日 渡辺善忠

 

 今月は12月17日に交読する27編と24日のクリスマス礼拝で交読する24編を学びます。

 

詩編27編(12月17日)

 12月17日はマタイによる福音書1章18〜25節の御言葉によって救い主を待ち望むつつクリスマスへ歩みますので、「主を待ち望め」(14節)という御言葉に導かれて27編を交読することに致しました。

 「主を待ち望め」という御言葉は、イスラエルの人々が危機的な状況の中を歩んでいる時の励ましの言葉として42編や130編にも使われています。27編を含めてこれらの詩編は、イスラエルが滅ぼされて多くの人々がバビロンで捕虜とされていた時代に記されたと考えられています。このため「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」という御言葉や、「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう」という御言葉にはいずれも、イスラエルを支配していた新バビロニア帝国の人々を恐れるなという意味があります(1節)。また「命のある限り、主の家に宿り」という御言葉には、エルサレムの神殿から離れていた時期に、「主の家」(=エルサレム神殿)を思い起こしていた人々の気持ちが示されています。さらに「仮庵」、「幕屋」は、エルサレム神殿を失った人々が礼拝を捧げる場をあらわす意味があり、「主よ、あなたの道を示し、平らな道へ導いてください」という御言葉には、捕囚から解放されてエルサレムへ戻る道を求める切なる思いが伝えられています(11節/イザヤ書40章3〜4節参照)。

 このような歴史的背景は、御子イエスがお生まれになった紀元1世紀の時代にも関わりがあります。なぜならイスラエルは紀元前1世紀頃からローマ帝国の支配を受け始め、紀元後70年にはエルサレム神殿がローマ帝国によって再び破壊され、国全体が滅ぼされてしまったからです。

 私たちは幸いに、迫害を受けたり、捕虜とされることはありませんが、様々な力に支配されたり、目に見えない形で迫害を受けることがあるかもしれません。この意味をおぼえて、地上のあらゆる力を恐れることなく、主を待ち望む信仰者として歩み続けることの大切さを心に留めながら27編を交読致しましょう。

 

詩編24編(12月24日)

 12月24日は17日に引き続き、マタイによる福音書1章18〜25節の御言葉によって主イエスこそが真の王であることをおぼえながらクリスマス礼拝を守る予定ですので、「栄光に輝く王」(7〜8節)という御言葉が収められている詩編24編を交読することに致しました。

 「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」(3節)という御言葉には、信仰と政治の両面でイスラエルを治める人物があらわれることへの期待が示されています。また「主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる」(5節)という御言葉には、神がイスラエルを治める者を守り導く恵みが示されています。さらに「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」(7、9節)という御言葉は、イスラエルの指導者がエルサレムの神殿で任職を受ける時に用いられていたと言われています。この御言葉は後半の7〜10節に二回繰り返されているため、エルサレム神殿の祭儀では「掛け合い」のように歌われていた可能性があると考えられています。

 ネヘミヤ記12章27〜43節には、エルサレムの第二神殿が落成する時に、聖歌隊が城壁の左右に分かれてステレオのような音響で賛美を捧げたと伝えられています。このような記録があるため24編は、大掛かりな祭儀の時に二組の聖歌隊によって歌われたと考えられています。ユダヤ教〜教会の歴史で再び二重合唱が用いられるのは、教会がローマ帝国の国教となった後のことであるため、古代のエルサレム神殿では、早い時期から発展した音楽の様式が用いられていたと考えられています。

 詩編24編にこのような背景があることは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら詩編を交読することは、二組の聖歌隊で詩が歌い交わされたことを受け継ぐ意味があるからです。この意味を心に留めて、詩編24編を高らかに交読することによって、真の王イエス・キリストの降誕を共々に喜び歌いましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 00:15
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