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聖書研究会 「詩編46、49編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編46、49編

2017年9月17日 渡辺善忠

 

詩編49編(9月24日)

 9月24日の主日礼拝(合同礼拝)ではヨハネによる福音書1章29〜34節の御言葉に基づいて、御子イエスが神の小羊として十字架で屠られた贖いの御業について学ぶため、「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(9節)という御言葉が収められている詩編49編を交読致します。

 旧約聖書の時代に「贖う」という御言葉は、「金銭を支払って奴隷を買い戻す(解放する)」という意味がありました。神はエジプト人の奴隷であったイスラエルの人々を救い、再びパレスチナ地方へ導いて下さったため、「贖う」という御言葉は、神の救いの御業を示す広い意味で用いられるようになりました。しかしパレスチナ地方へ導かれたイスラエルの人々は、国が栄えるようになると神の救いの御業を忘れて「財宝」や「富」(7、11節、17節参照)に頼るようになりました。イスラエルの国が最初に栄えたのはダビデやソロモンが国を治めた紀元前10世紀頃であり、第一神殿はこの時期に建てられたため、財宝や富を戒める意味の御言葉はこの時代に遡ると考えられています。

また「格言」や「竪琴」という御言葉にも、この詩の原詩が第一神殿に遡ることが示されています。なぜなら旧約聖書の「格言集」である箴言にも第一神殿時代の言葉が伝えられており、竪琴を奏でる音楽家のルーツはダビデ王であるからです。このため49編は、財宝や富への批判が高まった第一神殿時代の原詩が受け継がれ、第二神殿が築かれた後にイスラエルが再び栄えた時代に現在の形へ発展したと言われています。

 主イエスが弟子たちにおっしゃった「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マルコ福音書8章36〜37節)という御言葉には、49編に通じる意味があります。なぜなら代々の国々も一人の人間も、富の虜(奴隷)になると、神への信頼から離れてしまうからです。私たちはこの意味をおぼえて、神が御子イエスを地上に遣わし、十字架によって私たちを贖って下さった御業のみに救いがあることを心に刻みたいと思います。

 

詩編46編(10月29日)

 46編は2015年にも聖書研究会で学びましたが、宗教改革運動を始めたルターが愛した詩編として毎年10月31日の直前の主日に交読していますので、今一度学びを深めたいと思います。

以前にも学びましたように、神が「わたしたちの砦」という御言葉は、46編以外の多くの詩編にも用いられています。イスラエルの町は城壁によって守られていたため、「砦」という御言葉は元々、神が町を守る意味で使われていたと考えられています。また「聖所」はエルサレム神殿を、「都」はエルサレムの町を指す御言葉です。このため46編の原詩は、堅固な城壁で守られているエルサレム神殿が、イスラエルの信仰の中心であることを伝える素朴な詩であったと考えられています。

また古代のパレスチナには、シナイ山をはじめとする活火山が存在したため、「山々が揺らいで海の中に移る」(3節)、「海の水が騒ぎ、沸きかえり〜山々が震える」(4節)という御言葉には、火山活動を神の御業と理解していたイスラエルの人々の理解が示されていると考えられています。46編の御言葉にはこのような背景があるため、この詩編は、古代の信仰の理解が受け継がれ、エルサレムの第一〜第二神殿の時代に整えられて現在の形に至ったと考えられています。

 このような背景は、ルターが宗教改革運動を始めた時代に通じる意味があります。なぜなら現在のヨーロッパ文化圏も「砦」によって町の境界が定められ、町の中心に教会が建てられているからです。また「山々が震える」ことは、ルターをはじめとする改革者たちにとっては、巨大な山である「ローマ・カトリック教会が震える」ことであったからです。このような寓意があるため、ルターはこの詩によって、教会の歴史が大きく変わりつつあることを、神の御業として理解したと言われています。この意味を心に留めて、教会としても一人の信仰者としても、「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」(7節)ような大きな出来事が起こった時にも、「わたしたちの砦」である神に信頼しつつ教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 00:12
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