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聖書研究会 「詩編52編、143編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編52編、143編

2017年2月19日 渡辺善忠

 

詩編143編(2月19日・公現節第七主日)

2月19日はハイデルベルク信仰問答51に記されている神の赦しの御業について学ぶため、この日は、神の救いと赦しを祈り求め、人々を悔い改めへ導くために広く用いられている詩編143編を交読致します。

 143編は、敵からの救いを神に願う個人の詩が、神の救いの御業に応える悔い改めの詩歌として発展した後に、神殿の祭儀で用いられるようになったと考えられています。この詩は作者がダビデに冠せられているため、原詩はイスラエルに統一王国が築かれた時代に遡ると考えられています。こうした経緯があるため、「敵」という言葉が収められている箇所(3、9、12節)は古い時代に由来し、悔い改めを促す箇所(2、7〜8、10〜11節)は、神殿の祭儀や会堂の礼拝で用いられるようになった時期に加えられた可能性があると言われています。

 この詩編が広く用いられるようになった後は、こうした歴史的な背景を超えて、人間の普遍的な罪を示す歌として理解されるようになりました。この意味は「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にいません」(2節)という御言葉に示されています。なぜならこの御言葉には、旧約聖書のヨブ記に伝えられている「なぜ義人が苦難を受けるのか」という内容をはじめとして、聖書全体に示されている原罪(全ての人間に罪があるという理解)が示されているからです。この意味を心に留めて、神が私たちの罪を赦すために御子イエスを十字架に架けて下さった御業をおぼえつつ、143編を交読致しましょう。

 

詩編52編(2月26日・公現節第八主日)

 2月26日はハイデルベルク信仰問答52に示されているローマの信徒への手紙の御言葉によって、神の力に信頼して歩むことの大切さを学びます。詩編52編には、神の慈しみに信頼して歩むことの喜びが歌われており、ハイデルベルク信仰問答の学びを締め括るにふさわしいと考えたため、この詩編を交読することに致しました。

 前書き(1〜2節)には、サウル王に命を狙われるようになったダビデが、祭司アヒメレクのもとに身を寄せた出来事がこの詩の由来であると伝えられています。サムエル記上巻には、ダビデが神の前に正しく歩んでいたにも関わらず、サウル王がダビデを疎んじ、命を狙うようになったと伝えられています。このため古の詩人は、前半(3〜9節)を自分の力を誇るサウルへの批判として、後半(10〜11節)を神に信頼しているダビデを守る意味で詠んだと考えられています。

 52編にはこのような古事が背景にありますが、この詩は、神に従う者と、自分の力を誇示する者との対比に加えて、全ての人間に、神に信頼する思いと自分の力に頼る思いがあるという象徴的な意味で理解されるようになりました。この意味を礎として教会では、「神の家(神殿)にとどまります」という御言葉を、教会に留まり、礼拝の時に神の御許に繰り返し立ち返るという意味で理解しています。

 この意味を心に留めて、神が御子イエスの十字架と復活によって私たちを救って下さった御業に信頼し、礼拝で繰り返し神の御許へ立ち返る者とされるように祈り合いながら、ハイデルベルク信仰問答の学びを締め括りたいと思います。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 23:59
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