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聖書研究「詩篇16,30,110」

 巣鴨教会聖書研究会 「詩篇16、30、110編」

2015年3月15日 渡辺善忠 牧師

 

今月は、イースターの時期に用いられる詩編16編と30編と、主イエスの昇天日に用いられる110編の三編を学びたいと思います。

 

詩編16編

 この詩編は韻律が壊れている箇所が多いため、古い時代の詩が編集を重ねられながら伝えられていたと考えられています。この詩が古いことは、「血を注ぐ彼らの祭り」(4節)という御言葉にも示されています。なぜならこの言葉は、パレスチナ地方に土着の古い宗教祭儀を背景として記された可能性があるからです。

また、原作者とされるダビデは楽器の演奏者を神殿に召し抱えていたため、表題の「ミクタム」は楽器の一種であったと言われていますが、楽器の詳細は不明です。原作者がダビデに帰されていることにも、この詩が古いことが示されています。

この詩では、神への信頼を土台として、命を与えて下さる神への感謝が歌われています。「生きる者に墓穴を見させず〜命の道を教えてくださいます」(10〜11節)という御言葉は、元々は命を司る神へ感謝を捧げる意味でしたが、教会はこの言葉を、復活のイエスが新しい命を与えて下さることを預言する意味で理解するようになりました。このため詩編16編は、イースターの時期に多くの教会で用いられています。

 

詩編30編

 冒頭に「神殿奉献の歌」と記されているため、この詩編は、エルサレムの第二神殿が奉献された時に歌われた詩がルーツであると考えられています。この詩編は、紀元前2世紀にエルサレム神殿で行われた祭儀で用いられた記録が残っているため、早い時期から神殿で用いられていたと考えられています。

また、神が命を与えて下さることへの感謝が歌われている箇所は、ヒゼキヤ王が病気であった時に捧げた祈りの御言葉と関連性があります(イザヤ書38章参照)。このため、ヒゼキヤ王の祈りが広く伝えられ、神殿で用いられる式文として整えられた言葉が、この詩編に収められたと考えられています。この詩には以上の背景があるため、「敵」(2節)という御言葉は、戦いの相手ではなく、「死」を示す言葉であると考えられています。この詩は病気の癒しを背景に記されたため、「死からの復活」という理解は、あくまでも預言的な意味の解釈であると言われています。この詩も、16編と同様に、イースターの時期に多くの教会で用いられています。

 

詩編110編

 この詩編の中の「力ある杖、敵のただ中で支配せよ」(2節)、「主は諸国を裁き〜」(6節)などの御言葉は、戦争を背景として記されました。旧約時代のイスラエルは近隣諸国からの脅威に常にさらされていたため、この詩は、戦いを司る救い主が現れることへの期待をもって歌い継がれていたと考えられています。

 しかし現実には、イスラエルは軍事的に弱小国であり、紀元前1世紀にはローマ帝国の支配を受けるようになりました。このような状況の中で、「救い主」は、戦いを司る存在ではなく、信仰的な救い主の意味として理解されるようになりました。初代教会では、このようなユダヤ教の理解を受け継ぎ、復活された救い主イエスが、父なる神の右に座られたという預言的な意味でこの詩を歌うようになりました。

 このような理解は、新約聖書全体に示されています。なぜなら「わたしの右の座に就くがよい」(1節)という御言葉は、マタイ、マルコ(2回)、ルカ、使徒行伝(2回)、ローマ書、エフェソ書、コロサイ書、ヘブライ書(3回)、ペテロ書気飽用されているため、110編は早い時期から、広い地域の教会で歌われていたと考えられているからです。私たちはこのような理解を受け継ぎ、詩編110編によって、神の右に座したもうイエスこそ救い主であることを伝え続けてまいりたいと思います。


author:sugamo-church, category:聖書研究, 16:18
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