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聖書研究会「詩編28、76編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編28編、76

2017年7月16日 渡辺善忠

 

詩編28編(7月16日)

 7月〜8月は聖書の御言葉に基づいて洗礼について学びますので、16日は、救い主イエスの働きを預言する「主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救いください、あなたの民を」(8〜9節)という御言葉が含まれている28編を交読致します。

 28編の御言葉には、「わたし」という一人称単数形が多く用いられています。また「至聖所に向かって手を上げ」(2節)という御言葉には、この詩編が神殿の祈祷文として用いられていたことが示されています。これらの御言葉が収められているため、28編は元々、神殿で個人的な祈願を行う時に用いられていたと考えられています。

また「神に逆らう者、悪を行う者」(3節)という御言葉には、イスラエルの中に不信仰な者がいたことが示されています。さらに、「彼らは仲間に向かって平和を口にしますが、心には悪意を抱いています」(3節)という御言葉には、不信仰な人々が詩人(或いは祈祷請願者)と同じ共同体で、表面的には良き交わりを保っていたことが窺えます。このような状況が示されているため、この詩編は、公の祭儀よりも、私的な請願を行う時に用いられていた可能性が高いと言われています。

 このような背景に対して、「お救いください、あなたの民を」(9節)という祈りの言葉は、共同体全体(イスラエル)のための祈りであるため、この詩は、個人的な願いから広い意味へ発展したと考えられています。このことは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら洗礼は、個人の救いだけにとどまらず、教会全体の救いに関わる礼式であるからです。この意味をおぼえて、私たちが「教会」という共同体として神の救いの御業にあずかっていることを心に留めながら28編を交読致しましょう。

 

詩編76編(7月23日)

 「地の貧しい人をすべて救われる」(10節)という御言葉には、神が全ての人々を救いへ招いておられる御業が示されているため、23日はこの詩編を交読致します。

 前口上に指定されている「指揮者によって。伴奏付き」という御言葉には、この詩編が、指揮者と伴奏を必要とする多くの人々によって歌われていたことが示されています。また2〜7節の御言葉には、古代のイスラエルが戦乱の中を歩んでいた状況が示されています。このため76編は、戦乱の歴史を伝える素朴な詩歌が発展し、第一神殿〜第二神殿の大掛かりな祭儀で用いられるに至ったと考えられています。

 このような背景は、「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる」(10節)という御言葉にも示されています。なぜならこの御言葉には、神が、イスラエルに敵対する国々を滅ぼすことに加えて、イスラエルを超えて救いの御業をなさる意味が示されているからです。紀元前6世紀にイスラエルが滅ぼされた前後の時期には、パレスチナ地方から他の地域に逃げた人々がいたため、この御言葉には、イスラエルの人々が広い地域に散らされた状況が示されていると考えられています。

 このような背景は、教会の歴史にも関わりがあります。なぜなら教会は、初代教会から二世代目の時代に、ローマ帝国の迫害によって多くの人々が広い地域へ散らされた出来事によって広く発展したからです。このような歴史を経て、現在は世界の全ての地域に教会が建てられており、私たちもその末席に連なっています。この意味をおぼえて、神が「地の貧しい人をすべて救われる」ために、教会としても一人の信仰者としても私たちを用いておられる御業を心に留めながら、76編を交読致しましょう。

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聖書研究会「詩編149〜150編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編149〜150編

2017年6月18日 渡辺善忠

 

 6月11日の51編、18日の107編はすでに学んだため、今月は25日に交読する150編と149編の二編を学びます。

 

詩編149編

 146〜149編には、「ハレルヤ」(=神を賛美せよ)という御言葉に導かれて、詩編全体の内容が伝えられており、150編ではシンプルな言葉で神への賛美が歌われています。このため詩編を現在の形に編纂した人々は、146〜149編によって詩編全体の内容を要約し、結びの賛美として150編を収めたと考えられています。

 149編全体は勝利の響きで満ちているため、この詩は、イスラエルの人々が捕虜とされていたバビロンから解放され、エルサレムに戻った時期に歌われていたと考えられています。このような背景は、三回に渡って記されている「主の慈しみに生きる人」という御言葉に示されています(1、5、9節)。なぜならこの御言葉は、エルサレム神殿を再建していたグループを指す呼称であったため、149編は、神殿が再建されることを鼓舞するために歌われていたと考えられているからです。

 また「伏していても喜びの声をあげる」(5節)という御言葉には、祭儀の中で神を拝しながら賛美を歌った所作が反映していると言われています。このため149編は、エルサレム神殿が再建された後の祭儀でも歌われていたと考えられています。

 149編がこのような経緯で編纂されたことは、現代の教会にとって大切な意味があります。なぜなら賛美歌は、礼拝で歌い継がれることによって発展する詩歌であるからです。この意味を心に留めて、私たちの教会が良き賛美を神へ捧げる器として奏でられるように祈り合いながら、賛美歌を歌い継いでまいりましょう。

 

詩編150編(6月25日)

 6月25日はペトロの手紙一1章3〜12節の御言葉によって、全ての人々が神の救いの御業へ招かれている恵みを分かち合うため、「息あるものはこぞって、主を賛美せよ」(6節)という詩に導かれて、150編を交読することに致しました。

 「聖所」という御言葉には、詩編が「聖なる所」(=神殿、ユダヤの会堂、教会)で歌われるために編纂されたことが示されています。また「大空の砦」という詩的表現には、「聖所」を越えて詩編が広く歌われることへの希望が示されています。

 さらに、「角笛」、「琴」、「竪琴」(3節)、「太鼓」、「弦」、「笛」(4節)、「シンバル」(5節)は、詩編を含めて、旧約聖書全体に用いられている楽器です。これらの楽器と呼応して、人の声によって「神を賛美せよ」という歌詞が繰り返し記されていることに加えて、「息あるものはこぞって、主を賛美せよ」と記されているため、これらの御言葉には、被造物全体が神を讃えるための存在であることが示されています。また「踊りながら」(4節)という御言葉には、「踊り」も賛美に含まれることが示されています。このような意味があるため、150編には、神の創造の御業に応えて、あらゆる方法で神へ賛美を捧げることの大切さが伝えられていると考えられています。

 このような背景は、ペトロの手紙の御言葉にも示されています。なぜならこの日に学ぶ御言葉には、全ての人々が神の御業に招かれ、神を賛美する者とされることの大切さが説かれているからです。この意味を心に留めて、私たちの教会が、神の創造の御業に応える賛美の器とされるように祈り合いながら、詩編全体の締め括りとして収められた「頌栄」として150編を交読致しましょう。

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聖書研究会「詩編20,48編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編20編、48編

2017年5月28日 渡辺善忠

 

詩編20編(昇天日/5月28日)

 5月28日は復活の主が天に昇られたことをおぼえて礼拝を守ります。「ヤコブの神があなたを高く上げ」(2節)という御言葉は主イエスの昇天を指し示す意味があり、「主は油注がれた方に勝利を授け」(7節)という御言葉は、神が「油注がれた方」(=救い主イエス)に勝利を授ける意味があるため、この日は詩編20編を交読致します。

 詩編20編は元々、為政者や軍隊の指導者が職に任ぜられる時に用いられていたと考えられています。このような背景は、「聖所から助けを遣わし」(3節)という御言葉や、「旗を掲げることができるように」(6節)と御言葉に示されています。なぜなら「助けを遣わし」という御言葉は戦いを助ける意味があり、「旗を掲げる」という御言葉は、戦いに勝利する意味があるからです。また、「王に勝利を与え〜我らに答えてください」(10節)という御言葉の中の「我ら」という御言葉には、戦いの指導者が職に任ぜられる礼式に、多くの民が連なっていたことが示されています。

 さらに「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もある」(8節)という御言葉には、エジプトやバビロニア帝国が戦車や騎馬隊を誇っていたことが背景にあると考えられています。このことに対して、「我らは、我らの神、主の御名を唱える」(8節)という御言葉には、軍事力ではなく神を信頼することの大切さが示されています。

 詩編20編にこのような歴史が刻まれていることは、昨今のアジア情勢にとって大切な意味があります。なぜなら、外交は本来、軍事力を誇ることによるのではなく、信頼関係を築くことが土台であるからです。この意味をおぼえて、現代の為政者たちが心を低くする歩みへ導かれるように祈り合いながら詩編20編を交読致しましょう。

 

詩編48編(ペンテコステ/6月4日)

 今年は6月4日にペンテコステ(聖霊降臨日)を記念する礼拝を守ります。「神の都」(2節)、「シオンの山、力ある王の都」(3節)、「主の都」、「神の都」(9節)という御言葉にはいずれも、聖霊が降った場所であるエルサレムが示されており、「賛美は御名と共に地の果てに及ぶ」(11節)という御言葉は、聖霊によって教会が地の果てまで建てられることを預言する意味があるため、この日は48編を交読致します。

 この詩編には「神の都」であるエルサレムを讃える音調が満ちているため、「シオン賛歌」(エルサレム賛歌)と呼ばれています。旧約聖書では、エルサレムに第一神殿が建てられた時代が理想的に描かれているため、48編の原詩は、第一神殿が存在した紀元前10世紀〜6世紀に遡ると考えられています。このような背景は、「彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った」(6節)という御言葉に示されています。なぜならこの御言葉には、エルサレムに第一神殿が建てられた前後の時代に、イスラエルが他の国々との戦いに勝利していたことを背景に記されたと言われているからです。

 このような歴史的背景に加えて、48編は詩的に洗練された言葉が多く使われているため、原詩が時代を経て発展した後に現在の形に整えられたと考えられています。

 エルサレムが信仰の中心的な場所と考えられていたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら、古代のイスラエルの人々がエルサレム神殿を中心として信仰生活を営んでいたことは、私たちにとっては、教会を中心として信仰生活を歩む意味があるからです。この意味を心に留めて、神が私たちの教会をご自身の「都」として下さる恵みを感謝して受け入れながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会「詩編13〜14編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編13〜14編

2017年4月30日 渡辺善忠

 

詩編13編

 13〜14編の作者はダビデに帰されておりますが、二編とも苦しみや嘆きが歌われています。二編の内容は一般的な嘆きであり、「指揮者によって」、「賛歌」という御言葉には、この歌が多人数で用いられていたことが示されています。このため13〜14編は、苦しみや嘆きを執り成す祭儀で歌われていたと考えられています。

 神が信仰者を「忘れておられ」、「御顔を隠しておられる」という御言葉は、紀元前6世紀にイスラエルが滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンで歩んでいた時代に使われていました(2節)。また「敵はわたしに向かって誇る」(3節)、「敵が勝ったと思うことのないように」(5節)という御言葉にも、イスラエルが戦争に負けた出来事が示されています。さらに、「主はわたしに報いてくださった」(6節)という御言葉は、イスラエルの人々が捕虜から解放されたことを伝える意味があります。イスラエルの人々は紀元前6世紀に約50年間捕虜とされていたため、この詩は、捕虜とされていた時代の嘆きの詩を元として、解放された時の喜びの言葉が加えられ、エルサレムの第二神殿の祭儀で用いられるために編纂されたと考えられています。

 このような背景は、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、礼拝の時に苦しみや嘆きを神に告白し、聖書の御言葉と聖霊によって救いへと導かれ、「主に向かって歌う」(6節=賛美を捧げる)者とされるからです。この意味を心に留めて、神が礼拝を通して、私たちを苦しみや嘆きから救い出して下さる御業に信頼する者とされるように祈り合いながら、詩編13編を歌い継ぎましょう。

 

詩編14編

 「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』」という御言葉は、イスラエルの人々が捕虜とされていた時代に、バビロンの人々から嘲られた時の言葉であると考えられています。また「神を求める人はいないか」(2節)、「悪を行う者は知っているはずではないか」、「主を呼び求めることをしない者よ」(4節)という御言葉は、イスラエルの人々がバビロンで歩んでいた時代に、信仰から離れた者がいたことが示されています。

 さらに、「イスラエルの救いがシオンから起こるように」、「主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき」(7節)という御言葉は、イスラエルの人々が捕虜から解放された後に、シオン(=エルサレム)の神殿で再び礼拝を捧げる歩みへ導かれたことを伝える意味があります。このため14編は、13編と同様に、イスラエルの人々が捕虜とされていた時代の嘆きの歌を原詩として、捕虜から解放された喜びが加えられ、エルサレムの第二神殿で用いられる賛歌として現在の形に至ったと考えられています。

 13〜14編がいずれも、エルサレムとバビロンを背景に歌われ、現在の形で歌い継がれていることは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちは、日曜日に礼拝を守った後に、週日の歩みにおいて苦しみや悩みに直面することがあっても、日曜日ごとに週日の苦難から解放され、礼拝を捧げる神の民とされるからです。この意味をおぼえて、旧約時代の「神殿」が私たちの「教会」であることを心に留めると共に、神が私たちを繰り返し礼拝へ導いて下さる御業に信頼する者とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会「詩編5〜6編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編5〜6編

2016年5月15日 渡辺善忠

 

詩編の前書きについて
 詩編5〜6編に記されている「指揮者によって」という言葉には、二つの詩編が大勢で歌われたか、指揮を必要とするような複雑なリズムであったことが示されています。また「笛に合わせて」(5編)という言葉と、「伴奏付き」「第八調」(6編)という言葉には、二つの詩編が大勢で歌われたか、複雑な旋律であったことが示されています。さらに、両方の詩編に記されている「賛歌」という名称は、会衆が歌う賛美歌のようなタイプの歌、「ダビデの詩」はダビデにちなんだ歌詞を示す意味があります。
このような指定があるため、詩編5〜6編は、神殿の公の祭儀に用いられていたと考えられています。これらの前書きにも、詩編が楽譜であったことが示されています。
 
詩編5編
 5編の前書きには「ダビデの詩」と記されていますが、この詩は一般的な内容であるため、罪を犯したダビデにちなんだ嘆きの歌であると考えられています。
 「朝ごとに」(4節に二回)という御言葉や「あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し」(8節)という御言葉には、この詩編が、エルサレム神殿で定期的に祭儀が行われていた時代の歌であることが示されています。また「偽って語る者」(7節)という御言葉と「彼らの口は正しいことを語らず」(10節)という御言葉には、偽証によって詩人が罪に定められたことが示されています。このような意味があるため、この詩編は、イスラエルが比較的平穏な時期に、自分の潔白について神殿に申し立てる時の祈りに用いられた式文であると考えられています。
 パウロは、悪人の振る舞いを示すために、この詩編の御言葉をローマの信徒への手紙3章13節に引用しました。このため初代教会時代の人々は、罪を嘆き、悔い改めに導かれる御言葉として、この詩編を理解していたと考えられています。この意味を心に留めて、詩編5編の御言葉によって悔い改めに導かれたいと思います。
 
詩編6編
 「主よ、癒してください」という御言葉や「死の国に行けば」という御言葉には、この詩が重い病の癒しを願う祈りとして用いられていたことが示されています。この詩には詩人が罪を犯したことが記されていないため、この詩は、正しい信仰者が病に陥った時の祭儀に用いられていた可能性があると考えられています。
神殿で神に仕えていたサドカイ派の人々は、死者が復活することがないと考えていました。このため、「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」(6節)という御言葉には、サドカイ派の人々が、死によって全てが終ると考えていた理解が反映されています。
しかし、神から遣わされた御子イエスは、病を癒され、復活の命によって陰府にいる人々を永遠の命へ招いて下さいました。このため、教会ではこの詩編を、神と私たちを主イエスが執り成して下さる意味で受け入れてまいりました。この意味を心に留めて、生と命を司っておられる神が、私たちを救って下さるために御子イエスを遣わされた御業に心から感謝しつつ、信仰生活を歩み続けてまいりましょう。
author:sugamo-church, category:聖書研究, 13:00
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聖書研究会「詩編3〜4編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編3〜4編

2016年4月17日 渡辺善忠
 
 先月から、まだ取り上げていない詩編を順番に辿っておりますので、今月は引き続き3〜4編を学びたいと思います。
 
詩編の前書きについて
 詩編3〜4編をはじめとして、多くの詩編には前書きが付されています。この中の「ダビデの詩」という言葉は、「ダビデ作」という意味ではなく、「ダビデにちなんだ」という意味であると言われています。また「賛歌」は神殿で歌われる歌であり、「伴奏付き」という言葉は、伴奏を付けることを指示する言葉でした。さらに3〜4編の途中に記されている「セラ」は、休符(歌唱を休む箇所)であったと考えられています。
これらの前書きによって、詩編が楽譜であったことを心に留めたいと思います。
 
詩編3編
 前書きには、「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と記されていますが、この詩には、一般的な嘆きが歌われています。このため3編は、ダビデに象徴されるような個人的な嘆きが歌われていた古い詩が発展して、多くの人々に共通する内容が神殿の祭儀で歌われるようになったものであると考えられています。
 古い原詩が発展してこの詩編が編纂されたことは、「彼に神の救いなどあるものか」という御言葉に示されています(3節)。なぜならこの御言葉は、ダビデよりも後代に、イスラエルの人々がバビロンで捕虜とされていた時代を背景として記された言葉であるからです。また「多くの民に包囲されても」という御言葉も、ダビデよりも後代に、イスラエルが戦乱に巻き込まれていた時代の言葉であると考えられています。
このような背景があるため、3編は、個人の嘆きを歌う素朴な詩が発展し、共同の祭儀で歌われるようになった詩であると考えられています。この意味を心に留めて、神が私たち一人一人の嘆きを顧みて下さる恵みを、感謝して受け入れたいと思います。
 
詩編4編
 3編には「賛歌」という御言葉だけが記されていることに対して、4編は「指揮者によって。伴奏付き、賛歌」と記されています。このため、3編は個人的な祭儀の時に歌われ、4編は多くの人々が祭儀を捧げる時に歌われたという説もあります。
 この詩にも、ダビデの歩みが示されている御言葉がないため、一般的な嘆きの詩が発展して神殿で歌われるようになり、ダビデの名が後代に付されたと言われています。
 この中の、「いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか」という御言葉には、社会的に地位がある者が辱めを受けていたことが示されています(3節)。また「ふさわしい献げ物をささげて、主に寄り頼め」という御言葉には、原詩の作者が神殿で祈願を捧げることが出来る立場であったことが示されています(6節)。このような背景があるため、4編は、高位の為政者が大規模な祭儀を捧げる時の歌であったと考えられています。この意味を心に留めて、4編の御言葉に導かれて、現代の為政者が神の御前に心を低くする者とされるように祈り合いましょう。
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聖書研究会「詩編1〜2編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編1〜2編

2016年3月20日 渡辺善忠
 
イースターの時期に交読する詩編は昨年学んだため、今月は、まだ学んでいない詩編1〜2編を辿ります。
 
詩編1編
 詩編1編は「いかに幸いなことか」という御言葉で始まり、2編は「いかに幸いなことか」という御言葉で締め括られているため、1〜2編は詩編全体の「序曲」であると言われています。序曲の前編である1編では個人の信仰の歩みが歌われており、2編では国の歩みについて歌われているため、詩編全体を編纂した人々は、二つの詩編によって、イスラエル全体の信仰生活の基本を示していると考えられています。
詩編1編は、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)が幸いであるという内容が中心であるため、この詩の原詩は、信仰の知恵を尊ぶことが素朴に歌われていた詩であると言われています。またここでは、神殿の祭儀についてふれられていないため、この詩は、エルサレムの第一神殿が破壊されて祭儀を行うことが出来ず、神の教えのみに頼って歩んでいた捕囚の時代に編纂されたと考えられています。
マタイによる福音書の著者は、「いかに幸いなことか」という御言葉を、主イエスの山上の垂訓(マタイ福音書5〜7章)に用いることに加えて、垂訓の冒頭を詩文で始めることによって、旧約聖書に記されている神の教えと主イエスの教えによって歩む者の幸いを歌いました。この意味をおぼえて、聖書全体に伝えられている信仰の知恵を学び続けることの大切さを心に留めたいと思います。
 
詩編2編
 序曲の前半である1編に信仰者の歩みの基本が歌われていることに対して、後半の2編には、イスラエルを司る者を神が立てて下さる御業が示されています。この中に記されている、「主の油注がれた方」(2節)、「お前はわたしの子」(7節)という御言葉はいずれも、古代の中近東の諸王が、自らを「神の子」と呼んでいたことを背景に記されたと考えられています。さらに「枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」という御言葉には、イスラエルが大国の支配(枷、縄)から脱することへの希望が示されています。このような意味があるため、2編の原詩は、神が戦いに長けた王を立てて下さることへの期待が歌われていた詩であったと言われています。
 このような背景は、現代の為政者に対する警告の意味があります。なぜなら、国を司る人々は、私利私欲や党略に左右されるのではなく、自分を超えた方から職務に「立たされている」という謙った思いを持ち続けることが大切であるからです。
 初代教会では、「主の油注がれた方」(=メシア/救い主)という御言葉が、神の御子イエスが遣わされたことを示す預言として理解されていたため、この詩編は、新約聖書に多く引用されています。この意味を心に留めて、主イエスこそ全ての国を司っておられる救い主であることを信じつつ、信仰生活を歩み続けてまいりましょう。
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聖書研究会「詩編77〜78編」

 

巣鴨教会聖書研究会 詩編77〜78編

2016年1月17日 渡辺善忠

 

詩編77編

(1月24日:ハイデルベルク信仰問答26「聖なる洗礼」)

 ハイデルベルク信仰問答26と27には、洗礼についての教えが収められています。

 初代教会の人々は、神が出エジプトの時に、海の中に道を開いてイスラエルの人々をエジプトからパレスチナへ導いた出来事が洗礼のルーツだと理解していたと伝えられています。このことをおぼえて、二つの御言葉に導かれてこの詩編を選びました。

 まず、「大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし、深淵はおののいた。雨雲は水を注ぎ、雲は声をあげた」(17〜18節)という御言葉に大切な意味があります。なぜならこの御言葉には、神が「大水」(海)に加えて、雨の水も含めて全ての水を司っておられる意味が示されているからです。このため、古代のイスラエルの人々は、自然を創られた神が、海だけにとどまらず、川から海へ至る水の循環を司っておられることをおぼえて、この御言葉を記したと考えられています。

 また「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある」(20節)という御言葉には、神が海の中に道を創られ、イスラエルの人々を導かれた御業が示されています。古代のユダヤ教は出エジプトの時に始まったと考えられているため、初代教会の人々は、イスラエルの人々が海の中を通った出来事が洗礼(水を通って救いに導かれること)に受け継がれていると理解するようになりました。この意味をおぼえて、出エジプトの出来事が洗礼のルーツであることを心に留めたいと思います。

詩編78編

(2月7日:ハイデルベルク信仰問答28「聖なる晩餐」)

 信仰問答28には「聖なる晩餐」に関する教えが記されているため、晩餐の意味を広く理解して、神が備えて下さる食事について記されている78編を選びました。

 78編には、神の食事に関して、まず、神が、エジプトからパレスチナへ向かっていたイスラエルの人々を養うために「マナ」を与えて下さったことが歌われています(24〜29節)。マナは樹木から生じる樹液の一種で、夜に気温が低い時に凝固するため、ウエハースのように食することが出来たと伝えられています。しかし、マナは簡単に溶けてしまうため、保存出来ませんでした。ここには「マナ」(24節)という言葉と「パン」(25節)という言葉が記されているため、詩編の作者は、神がイスラエルの人々に日々マナを降らせて下さった出来事を土台として、毎日のパンを備えて下さる神の恵みに感謝することの大切さを伝えていると考えられています。

 さらに、終わり近くの70〜72節には、羊飼いであったダビデに象徴される遊牧民族であったイスラエルが、神から豊かな糧を授かっていることが、詩的な表現で伝えられています。ここには、食事を含めて、神がイスラエルの生活全てを支えておられる恵みが示されています。この意味を心に留めて、神が与えて下さる豊かな恵みを数えおぼえながら、78編を交読致しましょう。

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聖書研究会「新約聖書と詩編」

 

巣鴨教会聖書研究会 新約聖書と詩編

2015年12月27日 渡辺善忠

 

1.初代教会と詩編

 初代教会時代(紀元後30年代〜50年代頃)は、旧約聖書に加えて、パウロなどの伝道者が書いた手紙を中心として礼拝が守られていました。この時代の教会では、イザヤ書を中心とした預言書によって主イエスの受難の意味を理解し、詩編の御言葉によって主の復活と昇天を理解していたと言われています。このことは、「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」(詩編16編10編)や、「あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ」(詩編30編4節)という御言葉に示されています。なぜならこれらの御言葉は、旧約聖書の中では数少ない復活を指し示す言葉であるため、初代教会ではこの御言葉を、主の復活を示す預言の言葉として理解していたからです。また、「わたしの右の座に就くがよい」(110編1節)という御言葉は、主イエスの昇天を示す意味で理解されていました。

 これらの御言葉は、伝道者の手紙に引用されたり、間接的に新約聖書の御言葉に影響を与えたため、初代教会の人々は、詩編の御言葉によって主の復活と昇天を理解し、このような理解が新約聖書の多くの文書に受け継がれていると考えられています。

 このことは、私たちにとって大切な意味があります。なぜなら教会では、新約聖書のみならず、旧約聖書を含めた聖書全体で、主イエスの受難と復活の意味を理解することが大切であるからです。この意味を心に留めて、詩編の御言葉によって、神が旧約聖書の時代から、救いのご計画を進めておられたことを心に留めたいと思います。

 

2.詩編と初代教会の賛美歌

 「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ書3章16節)という御言葉には、初代教会の礼拝で「詩編と賛歌と霊的な歌」という三種類の歌が用いられていたことが示されています。三つの歌の最初に「詩編」と記されているため、ユダヤ教の神殿や会堂で歌われていた詩編の中で、主イエスを十字架と復活を指し示す預言の意味が含まれた詩は、そのまま初代教会の礼拝で歌われていたと考えられています。

 詩編がこのように用いられていたことに加えて、「賛歌」は教会で創られたオリジナルな賛美歌であり、「霊的な歌」は即興的な歌であったと考えられているため、初代教会では、詩編を土台として、他の二種類の歌が段々と発展したと言われています。

 初代教会において、賛美歌がこのように発展したことは、二千年に渡る賛美歌の歴史に示されています。なぜなら教会では、ユダヤ教の神殿や会堂で歌われていた詩編のようなフォーマルな歌に、新しく創作された賛美歌が用いられていたことに加えて、現代のゴスペルのような即興的な歌も、賛美歌として歌われてきたからです。

 私たちはこの意味をおぼえて、賛美歌の土台が詩編であることを心に留めると共に、新しい賛美歌も含めて、多くの歌によって神の救いの御業を讃える器とされるように祈り合いながら、新しい年も詩編を学び続けてまいりましょう。

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聖書研究会「詩編23、139編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編23、139編

2016年2月28日 渡辺善忠
 
詩編139編(3月24日:洗足木曜日夕礼拝)
 139編には、神が一人一人の信仰者を支えておられる恵みが示されています。
 詩編は元々、第一神殿と第二神殿の祭儀において、共同体として賛美を奏で、信仰を伝えるために編纂されました。しかしこの詩編には、個人と神との関わりが強調されているため、この詩編は、個人的な祈りの歌が発展したものであると考えられています。ヨブ記にはこの詩編に共通する御言葉が用いられているため、この詩の原詩は、神と信仰者個人の関わりを記した文献の影響を受けた可能性があると言われています。
 「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」(12節)という御言葉には、十字架に架けられた主イエスが死んで葬られ、陰府(よみ)に下られた時にも、神が御子イエスを守り導いておられる御業が示されているため、この詩編を洗足木曜日に交読することを示されました。
 この詩編には、神が信仰者と常に共におられる恵みと(1〜18節)、信仰者が歩む場を神が整えておられる御業が伝えられています(19〜24節)。これらの内容には、私たちが、神の御業に照らされていることをおぼえることの大切さが示されています。
この意味を心に留めて、私たちの思いの隅々までご存じの神に、全ての歩みを委ねる者とされるように祈り合いながら、139編を交読致しましょう。
 
詩編23編
 受難節に続けて交読する113〜118編は昨年学んだため、詩編の中で最もよく知られており、頻繁に交読する23編を学びたいと思います。
 この詩の冒頭に記されている「主は羊飼い」という御言葉は、イスラエルが元々遊牧民族であったことを背景として記されました。旧約聖書全体には、遊牧民族として神を素朴に信頼していたイスラエルが、土地を取得して農耕民族となった後に、土地を巡って他民族と争いが起きたり、他の土着の神々を拝むようになったりしたことが、信仰から離れる大きな要因であったことが、様々な形で伝えられています。このような背景があるため、「羊飼い」である神に信頼し、「何も欠けることがない」という詩的表現には、理想的な信仰者の姿が象徴されていると考えられています。
 また、「わたしを正しい道に導かれる〜死の陰の谷を行くときも」(3〜4節)という御言葉は、巡礼でエルサレムへ向かう途中で、危険な場所を通る時に、神の守りがあることを背景として記されたと考えられています。また、この直後に記されている「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」(5節)という御言葉には、ユダヤ教においては神がご用意下さる祝宴、教会では聖餐の意味が象徴されています。この意味を心に留めて、羊飼いなる神が、あらゆる妨げから私たちを守り、礼拝(聖餐)に導いておられる御業に感謝を捧げながら、礼拝生活を歩み続けてまいりましょう。
author:sugamo-church, category:聖書研究, 18:28
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