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聖書研究会 「詩篇80編、82編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編80編82編

2020年3月15日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない80編と82編を学びます。

 

詩編80編

 「アサフ」(1節)は研鑽を積んだ聖歌隊のような存在であったため、73編〜83編はエルサレム神殿の祭儀の時に音楽の専門的な訓練を受けた人々が歌っていた曲集であると考えられています(前回と前々回のレジメ参照)。「ゆり」は楽器を指す言葉だと言われていますが、詳しいことは分かりません。

 80編には「(万軍の)神よ(主よ)、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」という詩が繰り返し歌われています(4、8、20節)。この御言葉には、紀元前587年に新バビロニア帝国がイスラエルを滅ぼし、多くの人々を捕虜としてバビロンへ連れて行った出来事が示されています。このため「いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか」(5節)という御言葉には、捕虜として歩んでいた人々が、自分たちの不信仰のために国が滅ぼされたと理解していたことが伝えられています。

 「イスラエルを養う方」、「ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ」(2節)という御言葉には、神が古代の信仰者を守り導いておられた恵みが示されており、「ケルビムの上に座し」(2節)という御言葉には、天使ケルビムが支えている玉座に神が座しておられることが示されています。新バビロニア帝国がエルサレムの第一神殿を紀元前587年に破壊した後は、神は天に座しておられると理解されるようになったため、「ケルビムの上に座し」という表現が用いられたと考えられています。

 9節以降に続けて歌われているぶどうの比喩は、パレスチナ地方にぶどうが多く育っていたことを背景に記されました。同様の喩えはエレミヤ書、ホセア書、エゼキエル書にも収められており、これらの預言書はいずれも、イスラエルの人々がバビロンで捕虜とされていた時期に記されたため、神がイスラエルの人々を「ぶどうの木」を育むように慈しんでおられたという比喩は広く用いられていたと考えられています。主イエスはこのような旧約時代の歴史を受け継ぎ、「ぶどうの木の喩え」(ヨハネ福音書15章)を語られました。

 このような背景を心に留めて、80編の御言葉によって、神が罪深い私たちを「ぶどうの木」のように慈しみ、御子イエスを「光」(4、8、20節)として遣わして下さった御業に感謝を捧げましょう。

 

詩編82編

 「神」は旧約聖書の神をあらわす言葉であり、「神々」は他の宗教の神をあらわす意味があります。このため82編全体には、多神教であったパレスチナ地方近辺で、全ての神に勝るイスラエルの神が他の神々を裁く方であることが示されています。神が人間の裁きを司る方であることは他の詩編にも示されていますが、神が他の神々を裁くという内容は稀であるため、この詩編の原詩は神話的な題材であった言われています。

 パレスチナ地方近辺は、古代から現代に至るまで多くの宗教が混在しています。このためイスラエルの人々は、どの神が本当の神かということを常に自覚する必要がありました。このような信仰の理解は現在も続いているため、中近東近辺で起こる諍いは数千年に渡って「神々の戦い」と理解されています。

 国々を司る神という大きな視点に対して、「神々」という御言葉には神に守り導かれている人々という意味もあります。この意味は「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」(6節)という御言葉に示されています。なぜならこの御言葉には、神の恵みを受けている人々が、自分を神とするような高ぶる気持ちに至ったことが示されているからです。このため「しかし、あなたたちも人間として死ぬ」(7節)という御言葉には、神が傲慢な人々を裁かれる意味が告げられています。

 神の御子イエスはこの詩編に基づいて、「神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」とおっしゃいました(ヨハネ福音書10章35節)。当時のユダヤ教の人々は、このお言葉を神への冒涜だとして、主イエスを捕らえようとしました。このような確執にも、ユダヤ教の人々が「どの神が本当の神であるのか」という選択に立たされながら信仰生活を歩んでいたことが示されています。

 古代の信仰者たちがこのような状況の中で歩んでいたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、仏教や神道の習慣の中で信仰生活を歩んでおり、日本には汎神論的な神理解が一般的であるからです。このような状況を古代の信仰者たちの歩みに照らして顧み、聖書の御言葉と聖霊によって三位一体の神を信じる信仰に堅く立ち続けるように祈り合いながら、教会生活を歩んでまいりましょう。

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聖書研究会 「詩篇75編、79編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編75編79編

2020年2月16日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない75編と79編を学びます。

 

詩編75編

 73〜74編で学びましたように、「アサフ」(1節)は研鑽を積んだ聖歌隊のような存在であったため、73編〜83編はエルサレム神殿の祭儀の時に音楽の訓練を受けた人々が歌っていたと考えられています。

神が全地の審判者として裁きを行うことが75編の主題です。この詩は神へ感謝を捧げる一般的な賛美の歌で始まり(2節)、「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う」(3節)という御言葉には全体の主題が示されています。続く3〜10節では神が審判者であることが歌われているため、この部分は古い原詩に基づいており、詩編が編纂された時に2節が加えられて現在の形に至ったと考えられています。

 原詩が歌われた背景には、二つの可能性があります。一つめの可能性は、古代のイスラエルが近隣諸国から虐げられた出来事です。イスラエルは紀元前922年に南北に分裂した後に、紀元前721年に北王国がアッシリアによって、紀元前587年に南王国が新バビロニア帝国によって滅ぼされました。この時代に他の国々もイスラエルを攻撃したことがあったため、「驕る者」(5節)、「お前たちの角」(6節)という御言葉には、他国の人々が高ぶっていることが示されており、「この地の逆らう者は皆、それを飲み」(9節)という御言葉には、イスラエルを攻撃している他の国々を神が裁かれる御業が示されています。

 もう一つの可能性は、イスラエルの中で不信仰な人々が驕り高ぶっていたことです。イスラエルが他国から攻撃されて混乱していた時期には、神に抗う人々が多くあらわれたと伝えられています。国が混乱していた時期は裁判を開くことが難しく、神から離れた人々は「角を高くそびやかして」いました(6節)。このため75編は、信仰者を貶める人々を神が裁かれることを告げる歌であった可能性もあります。

 二つの背景はいずれも、私たちにとって大切な意味があります。なぜなら国々に争いがある時には、軍事力に頼るのではなく、神の公平な裁きを祈り求めるべきであるからです。また私たちが様々な争いに直面する時には、自らの罪を振り返り、心を低くして神の裁きを祈り求めることが大切であるからです。この意味を心に刻み、全てにおいて公平な方である神に信頼する者とされるように祈り合いましょう。

 

詩編79編

 「神よ、異国の民が〜あなたの聖なる神殿を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました」(1節)という御言葉には、新バビロニア帝国が紀元前587年にエルサレム神殿を破壊した時の様子が具体的に伝えられています。神殿が破壊された時の様子は74編にも伝えられており、共通した内容が多いため、二つの詩編の原詩は、エルサレム神殿が破壊された直後の嘆きの歌であったと考えられています。

 79編の全体の主題は、共同体が受けた苦難を信仰の視点で受け入れることです。イスラエルの人々は、北王国に続けて南王国が滅ぼされた出来事について自問自答を繰り返した結果、自らの罪によって国が滅ぼされてしまったという理解に至りました。「主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか」(5節)という御言葉には、国が滅ぼされた時に、イスラエルの人々が筆舌に尽くし難い苦しみを味わっていたことが示されています。このような時期を経た後に、イスラエルの人々は神に救いを求めるようになりました。「御怒りを注いでください。あなたを知ろうとしない異国の民の上に」(6節)という御言葉には、神の怒りの矛先を自分たちから敵へ向けて欲しいという切なる願いが示されています。

 また「彼らの神はどこにいる」(10節)という言葉は、42編にも伝えられています。42編は、イスラエルの人々が新バビロニア帝国で捕虜とされていた時代に、周りの人々から嘲りを受けたことを背景に記されました。このため79編は、エルサレム神殿が破壊された直後の嘆きの歌と、イスラエルの人々が捕虜とされていた時代の歌が結びついて現在の形に至ったと考えられています。

 このような歴史は、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちは、教会としても一人の信仰者としても、全てが崩れ去るような出来事に直面し、深い苦しみが続くことがあるからです。そのような時には、イスラエルの人々が深い嘆きを経て神に立ち帰り、捕虜から解放されることを祈り求めた詩編の言葉を思い起こして、主日礼拝で与えられる聖書の御言葉と聖霊に導かれて罪を悔い改め、神の御許へ繰り返し立ち帰りつつ教会生活を歩み続けてまいりたいと思います。

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聖書研究会 「詩篇73編、74編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編73編74編

2020年1月19日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない73編と74編を学びます。

 

詩編73編

前書きに記されている「アサフ」は、エルサレム神殿の祭儀で歌う人々のグループ名です。アサフは神殿の祭儀を司るレビ族に属しており、研鑽を積んだ聖歌隊のような存在でした。このため前書きに「アサフ」と記されている73〜83編は、音楽の訓練を受けた人々によって歌われていたと考えられています。

 73編の前半には、神に逆らう人々が飽食に身が肥やし、安穏な暮らしで財をなしていくことへの批判がつづられています。旧約聖書には「富は神から授かった恵みである」という思想がしばしばみられるため、前半の御言葉には、神のことを顧みない富裕層の人々への批判が込められています。また「わが主よ〜彼らの偶像を侮られるのを」という御言葉には、神を顧みなかった富裕層の人々の中に、他の神々(偶像)を拝むようになった人々がいたことが示されています(20節)。

 このような状況に対して、前半の中ほどに記されている「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが」(13節)、「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた」という御言葉には、古の詩人が忠実な信仰生活を歩んでいたことが示されています。1〜20節には、このような信仰者と不信仰者の対比が描かれているため、前半の原詩は日常的な不条理を歌った嘆きの詩であると考えられています。

 後半は前半の内容と異なり、詩人が神を求める素朴な思いが歌われているため、この部分は前半と別の原詩による可能性があります(21〜28節)。この可能性に基づくと、73編は、異なった二つの原詩が組み合わされ、神殿の祭儀に用いられるようになった時期に現在の形に至ったと考えられます。

 このような背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、日常の歩みの中で、貧富の格差や様々な不条理を経験するからです。また私たちは、内なる嘆きを神に訴えることもあるからです。この意味をおぼえて、「神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置き、御業をことごとく語り伝える」者とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう(28節)。

 

詩編74編

 前書きに書かれている「マスキール」という御言葉は、ヘブライ語で「教訓」という意味です。「永遠の廃墟となったところ」、「敵は聖所のすべてに災いをもたらしました」、「至聖所の中でほえ猛り」、「彫り物の飾りをすべて打ち壊し」などの御言葉には、イスラエルの敵国がエルサレム神殿を破壊した時の様子が具体的に伝えられています(1〜8節)。このため74編の原詩は、新バビロニア帝国が紀元前587年にエルサレム神殿を制圧した史実を歌い伝える嘆きの詩であったと考えられています。このような背景は「今は預言者もいません」、「敵は永久にあなたの御名を侮るのでしょうか」(9〜10節)という御言葉にも示されています。なぜならエルサレム神殿が破壊された直後は、預言者たちは活動することが出来ず、新バビロニア帝国の人々がイスラエルの神を嘲笑していた様子は、他の詩編にも伝えられているからです。

 このような背景に対して、中ほどに書かれている「御力をもって海を分け」(13節)という御言葉には出エジプトのことが示されており、「太陽と光を放つ物を備えられました」(16節)という御言葉には天地創造の御業が示されています。また「地の境をことごとく定められました」(17節)という御言葉には、神がイスラエルの人々をパレスチナ地方に定住させて下さった古代の歴史が示されています。さらに「あなたの鳩の魂を獣に渡さないでください」という御言葉には、国を失ったイスラエルの人々の心が鳩のように小さくなったことと、「獣」のような新バビロニア帝国の人々がイスラエルの人々を虐げていた現実が示されています。このため古の詩人は、天地を創造された神が古代の信仰者たちを守り導いて下さった御業を思い起こすことによって、困難に直面していた人々に慰めを与えたと考えられています。

 74編が苦難に直面していた人々への慰めの歌であったことは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら日本にも、古代の戦禍で迫害を受けた人々の古い民歌が残されているからです。また私たちも、嘆きの思いを心の中で奏でることがあるからです。この意味を心に留めて、「神よ、立ち上がり、御自分のために争ってください」という御言葉によって、人間の力による報復行為を慎むことの大切さを心に留めると共に、世界に真の平和が訪れるように祈り続けたいと思います。

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聖書研究会 「詩篇70編、71編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編70編71

2019年12月15日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない70編と71編を学びます。

 

詩編70編

 前書きに記されている「記念」という御言葉は、元々は「記念のささげもののため」という意味であり、レビ記2章9節と5章12節の「しるしとして一つかみ」という言葉に由来しています。レビ記ではこの御言葉が、祭司が祭壇で捧げ物を燃やす時の所作をあらわす意味で使われています。このため70編の原詩は祭司が捧げ物を燃やして煙と香りを神に捧げる祭儀の式文であったと考えられています。

 この詩編は、敵の破滅と恥を求める願いに満ちており、冒頭に書かれている「神よ、速やかにわたしを救い出し」(2節)という御言葉と、結びに書かれている「速やかにわたしを訪れてください」、「主よ、遅れないでください」(6節)という御言葉には、詩人が助けを求めている危急の状況が示されています。また「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています」(6節)という御言葉には、詩人が敵に対処出来ず、避け所に身を隠していた状況がうかがえます。このため70編の内容は、漢語の「四面楚歌」のような状況をあらわしていると言えましょう。

 この詩編は詩編40編14〜28節に並行箇所がありますが、原文では70編のほうが洗練された文体であるため、40編の原詩の後半部分が祭儀で用いられていたものが発展し、独立した詩として整えられたと考えられています。このような成立過程は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちが用いている讃美歌の歌詞も、洗練された言葉が他の讃美歌に転用されることがあるからです。

 70編には、助ける者がない状況の中で信仰者が迫害を受けている状況が伝えられており、十字架上の主イエスのお姿に通じるところがあるため、この詩編を受難節に歌っている教会もあります。この意味に照らしますと、「わたしの命をねらう者が恥を受け、嘲られ」(3節)、「はやし立てる者」(4節)、という御言葉はいずれも、十字架に架けられた主イエスが、無抵抗な状態で苦しみをお受けになった出来事を指し示していると言えましょう。この意味を心に留めて、私たちが苦難に直面している時にこそ、私たちの罪を負って十字架に架けられた主イエスが、私たちを守り導いておられる御業に信頼する者とされたいと思います。

 

詩編71編

 この詩編には前書きが付されておらず、22編と31編の御言葉が多く用いられています。このため71編は、詩編が現在の150編にまとめられつつあった時期に、22編と31編の御言葉をもとに、エルサレムの第二神殿で歌われるために編纂された可能性が高いと考えられています。

 この詩編には、神を避け所とする願いが繰り返される狭間に、神を信頼する思いと災いの描写が記されています。イスラエルは紀元前587年に新バビロニア帝国によって滅ぼされ、多くの人々が捕虜として首都バビロンへ連れて行かれました。紀元前538年にペルシャ帝国が新バビロニア帝国を滅ぼした後に、イスラエルの人々は捕虜から解放されて帰国し、エルサレムの第二神殿の再建を始めました。この時期のイスラエルには、最初にエルサレム神殿の再建を志す人々と、国全体の復興をした後に神殿の復興に着手すれば良いと考えていた人々が混在していたと伝えられています。71編はこのような時期に編纂されたため、この詩編で歌われている「敵」は、外敵のことだけでなく、イスラエルの人々が対立を深めていた状況も反映されていると考えられています。このような状況であったため、「わたしは常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り、なお決して語り尽くすことはできません」という御言葉には、神を賛美し続け、救いの御業を語り伝えていた人々が、神殿で賛美を捧げ、救いの祭儀を執り行うことを願う気持ちが示されていると言えましょう。

 またこの詩では、年老いた者の思いを示す言葉が歌われています(9、18節)。この御言葉には、一人の信仰者が齢を重ねる意味と、信仰の共同体が歴史を重ねているという象徴的な意味があります。このため多くの教会では、個人的な意味を越えて、信仰の歴史を刻む共同体の歌としてこの詩編が歌われています。

 このような背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、二千年の歴史を刻む信仰の共同体の末席に連なっているからです。この意味を心に留めて、神が老いも若きも、伝統ある教会も新しい教会も顧みておられる恵みに感謝を捧げながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩篇66編、67編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編66編67

2019年11月10日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない66編と67編を学びます。

 

詩編66編

 この詩編は、神の救いの御業を伝える前半部(1〜12節)と、祭儀(礼拝)において神に感謝を捧げる後半部(13〜20節)から成っています。文体や他の詩編との比較から、「我ら」という言葉が主語である前半部は神殿の祭儀や会堂の礼拝で用いられていた式文であり、「わたしは」という言葉が主語である後半部は、個人的な請願の歌であったと言われています。この詩編は明瞭に二つの部分に分かれているため、二つの原詩がバビロニア捕囚時代以降(紀元後6世紀後半)に編纂されたと考えられています。

 前半部の中の「神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った」(6節)という御言葉には、出エジプトの際に、神がイスラエルの人々のために紅海に道を開き、パレスチナへ導いた御業が示されています。また「あなたは我らを網に追い込み、我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された」(11〜12節)という御言葉には、新バビロニア帝国がイスラエルを滅ぼし、多くの人々が捕虜としてバビロンへ連れて行かれた苦難の出来事が示されています。二つの歴史的な背景には時代的な隔たりがあるため、前半部は神の救いの歴史を伝える歌として古くから歌われていたと考えられています。

 また後半部の中の、「わたしは献げ物を携えて神殿に入り、満願の献げ物をささげます」(13節)、「肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を、雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます」(15節)という御言葉には、神殿の祭儀の様子が具体的に伝えられています。前半部の主語は「我ら」であり後半部の主語は「わたし」であるため、神殿では、まず共同体(我ら)が前半部の歌による祭儀を行った後に、後半の歌を用いて個人的(わたし)な祭儀が捧げられた可能性もあります。

 このような方法で祭儀が行われたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちの教会では主日礼拝を捧げた後に、祈祷会において個々の課題を共有し、祈り合うことがあるからです。プロテスタント教会では他の方々のために執り成しの祈りをする習慣が受け継がれていることをおぼえて、主日礼拝を土台としてお互いのために祈り合うことの大切さを心に留めたいと思います。

 

詩編67編

 この詩編の冒頭に収められている「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きを、わたしたちに向けてくださいますように」(2節)という御言葉は、モーセの片腕として歩んだ祭司アロンの祝福の言葉と似ています(民数記6章24〜26節)。アロンの祝福の言葉は、旧約時代から現代に至るまでユダヤ教と教会の礼拝に受け継がれているため、この御言葉は旧約と新約を結ぶ帯であると言えましょう。

 祝福の言葉に続く感謝の歌は、4節と6節に二回繰り返し収められています。この歌は神殿の祭儀で様々な詩編と共に歌われていた可能性があるため、古い原詩に遡ると言われています。これに対して「すべての民」(3、4、6節)、「諸国の民」(5節)という御言葉は、イスラエルが捕囚から解放された後に多く見られる表現です。このため67編全体は、古い原詩と新しい歌が結び合わされ、第二神殿で歌われるために編纂されて現在の形に至ったと考えられています。

 このような背景は、「大地は作物を実らせました」(7節)という御言葉にも示されています。なぜなら作物が実るためには、一つの場所に定住して農作業をしなければならないため、この御言葉には、イスラエルの人々が捕囚から解放されてパレスチナ地方へ戻り、落ち着いた生活を営んでいた状況が示されているからです。このような時代背景は、「地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように」(8節)という御言葉にも示されています。なぜならこの御言葉には、信仰的にも社会的にも安定した生活をしていた人々が、伝道の御業に勤しむようになったことが示されているからです。

 上記の背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちも、古くから受け継がれている祝福の言葉のような定型句や詩編を礼拝で用いているからです。このような御言葉や歌は、旧約時代から現在に至るまで積み上げられてきた信仰の所産です。また私たちは、確かな信仰生活を土台として、伝道の働きに勤しむ者とされています。この意味をおぼえて、私たちの信仰が旧約時代をルーツとしていることを心に留めると共に、神の豊かな祝福に応える感謝の礼拝を捧げながら教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩篇64編、65編」

鴨教会聖書研究会 詩編64編65

2019年10月13日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない64編と65編を学びます。

 

詩編64編

 64〜65編の前書きにはいずれも、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩」と書かれています。「指揮者によって」という言葉には、二つの詩編とも指揮者を必要とする多人数の聖歌隊で歌われていたことが示されています。「賛歌」は神殿で歌われる「賛美歌」のことです。賛美歌に様々な内容の歌が収められているように、64編は神に悩みを訴える内容、65編は神への賛美という対照的な詩が伝えられています。

 64編は「わたし」という一人称で始まるため、素朴な原詩が歌い継がれた後に、神殿の祭儀で用いられる賛歌へ発展したと考えられています。「敵の脅威」(2節)、「さいなむ者の集い」(3節)などの御言葉は複数形で書かれているため、一人の信仰者が多くの敵と相対していたことが原詩の背景だと言われています。

 この詩には、敵が武器を持っていることが記されておらず、「彼らは舌を鋭い剣とし、毒を含む言葉を矢としてつがえ」(4節)と書かれています。このため敵とされている人々は、言葉で詩人を攻撃していたと考えられています。敵が言葉で詩人を攻撃していたことは、「巧妙に悪を謀り、『我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す』と言います」(7節)という御言葉にも示されています。

 このような状況は、時と場を越えて、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちを含めて、現代の信仰者は迫害や暴力を受けることはありませんが、言葉で攻撃されることはあるからです。「神は彼らに矢を射かけ」(8節)という御言葉には、神の御心にかなった歩みをしている信仰者がいわれなく攻撃される時に、神ご自身が敵に一矢報いて下さる御業が示されています。また「自分の舌がつまずきのもとになり、見る人は皆、頭を振って侮るでしょう」(9節)という御言葉によって、私たち自身が周りの人々を舌で攻撃する「敵」となっていないかを顧みるべきでありましょう。「舌がつまずきのもとになり」という御言葉には、攻撃的な言葉だけでなく、自分本位な多言雑言も含まれているからです。

この意味をおぼえて、聖書の御言葉によって自分の舌を制することの大切さを心に刻むと共に、聖書の御言葉と聖霊によって「主に従い、主によって誇る人」(11節)とされるように祈り合いたいと思います。

 

詩編65編

 この詩編には、神へ感謝を捧げる喜びの思いが満ち溢れています。全体の内容は、神殿に臨在されている神への賛美(2〜5節)、世界を統べ治めておられる神への賛美(6〜9節)、全地を創造された神への賛美(10〜14節)に分かれています。私たちにとって三つの賛美は、[蘿劼卜弸澆気譴討い訖澄↓∩瓦討旅顱垢鮗めておられる神、E恵呂鯀和い気譴真澄△箸いζ睛討任△襪燭瓠■僑喫圓了身は、旧約聖書の時代から現代の教会に至るまで、信仰者が神を賛美する基本的な内容であると言えましょう。

 65編の内容が現代の教会に通じる意味があることは、「沈黙してあなたに向かい〜あなたに満願の献げ物をささげます」(2節)という御言葉にも示されています。なぜなら「沈黙」という御言葉は、礼拝の始まりの前奏の時に黙祷することであり、「満願の献げ物」という御言葉は献金のことであるからです。また「罪の数々が〜あなたは贖ってくださいます」という御言葉には、父なる神が御子イエスを地上に遣わし、十字架と復活によって私たちを救って下さった御業を預言する意味があります。

 さらに「地に望んで水を与え〜」という御言葉から始まる10〜14節の段落では、神が農作物を実らせて下さる恵みへの感謝が歌われています。イスラエルの人々は積年、パレスチナ地方に古くからあった農耕の神バアルと敵対していました(列王記上17〜18章に伝えられているエリヤとバアルの預言者たちの戦いを参照)。このため古の詩人は、イスラエルの神が天地を創造し、農作物を実らせて下さる恵みを伝えるために後半の詩を奏でたと考えられています。このような背景を受けて、現代においては、収穫感謝祭の時に毎年この詩編を歌っている教会があるそうです。

 上記の背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら礼拝において、天地を創られ、全ての国々を治めておられる神を賛美することは、信仰者の基本的な務めであるからです。また私たちは、神の恵みとして日毎の糧を授かっていることを、食卓ごとに思い起こすべきでありましょう。この意味をおぼえて、神への感謝を「喜びの叫び」(14節)として声高らかに奏でながら教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 21:06
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聖書研究会 「詩篇61編、63編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編61編63

2019年9月15日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない61編と63編を学びます。

 

詩編61編

「指揮者によって。伴奏付き」という前書きには、この詩編が指揮者を必要とする多人数の合唱と楽器で歌われていたことが示されています。聖歌隊は第二神殿の時代に大きな編成に発展したため、61編は第二神殿が建てられた後に現在の形に整えられたと考えられています。

この詩の作者はダビデに帰されており、2〜6節はダビデ自身をあらわす「わたし」が主語ですが、7〜8節には「王」という三人称が使われており、締め括りの9節には再び「わたし」という言葉が使われています。また「あなたの幕屋」(5節)は神に礼拝を捧げる場所を示す言葉であり、「満願の献げ物をささげます」(9節)という御言葉は、最上の献げ物を神へ捧げる意味があります。このような御言葉が収められているため、61編は、イスラエルの最も偉大な王であったダビデをはじめとする王の働きが守られることを請願する祭儀の時に神殿や大規模な会堂で歌われていたと考えられています。

また「地の果て」という御言葉は、苦難に直面した詩人が「この世の果て」に追い詰められていることをあらわす詩的な言葉です。さらに「高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください」という御言葉には、敵が追い掛けることが出来ないほど高い山へ逃れさせて下さいという意味に加えて、「神が山に宿っておられる」という古代の信仰の理解が示されています。これらの御言葉には、この詩編の元の言葉が、個人が苦難から解放されることを願う素朴な祈りの言葉であったことが示されています。

61編の御言葉にこのような背景があることは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、様々な苦難に直面している中で礼拝に連なっている時に、苦難から解放されることを心の内で祈り願うことがあるからです。また神が山に宿っておられるという古代の信仰者たちの理解は、日本においては、富士山をはじめとする多くの山々が「霊山」と理解されていることに通じる意味があります。

 この意味をおぼえて、私たちにとって神が宿る場所である礼拝を尊ぶと共に、苦難の中を歩んでいる時にこそ祈りと賛美を神に捧げ続けることの大切さを心に刻みたいと思います。

 

詩編63編

 前書きに記されている「ダビデがユダの荒れ野にいたとき」という御言葉は、サウル王が荒れ野でダビデの命を奪おうとした出来事を背景に記されました(サムエル記上23章〜24章参照)。詩編の作者はこの故事をおぼえて、「わたしのからだは乾ききった大地のように衰え」という詩を歌いました。

また「わたしの魂はあなたを渇き求めます」(2節)という御言葉は42編にも使われており、42編はイスラエルが滅ぼされた時代に遡るため、この言葉は詩的表現として広く定着していたと考えられています。

 この詩編には信仰者が神を求めつつ歩むことの大切さが伝えられており、一日の始まりに歌うことがふさわしいため、初代教会(紀元後1世紀中ごろ)はこの詩編が早い時間の礼拝で歌われていたと伝えられています。またこの詩編には、神に信頼することが自分の命よりも大切であることが歌われているため、古代教会(紀元後2世紀〜4世紀)では殉教者を記念するミサ(礼拝)で用いられていました。

さらにこの詩編の後半には、詩人に敵がいたことが歌われています(10〜12節)。この中に収められている「神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように」という御言葉には、神に選ばれた王が任職される時に職務を忠実に遂行する誓いを立てていたことが示されています。この内容は1〜9節の内容とつながりが悪いため、別の詩の言葉が後半に加えられたという解釈もあります。しかし神に選ばれた王がまず神を求めることには大切な意味があるため、この詩編は王が忠実に職務を遂行することを祈り願う祭儀に用いられていたとする理解もあります。

 61編に上記のような背景があることは、全ての信仰者にとって大切な意味があります。なぜなら古の信仰者たちと同様に、私たちも神の導きを祈り求めてから一日を歩み始めることが大切であるからです。また私たちは、神への信頼が自分の命よりも尊いことを常に心に留めるべきでありましょう。

 この意味を心に留めて、一日の始まりに聖書の御言葉をひもとき、祈りを捧げると共に、神が私たちの命を司っておられる御業に信頼しつつ、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編59編、60編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編59編60

2019年7月21日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない59編と60編を学びます。

 

詩編59編

 前書きの「指揮者によって」、「『滅ぼさないでください』に合わせて」という御言葉は57〜59編に記されているため、この三編は指揮者を必要とする多くの人々によって、「滅ぼさないでください」という言葉に付された定まった旋律で歌われていたと考えられています。また57編と同様に59編の前書きには、サウルがダビデを殺そうとしていた時の歌と記されていますが、「国々を罰してください」(6節)、「神は〜地の果てまでも支配する方であることを」(14節)という御言葉には、この詩が他国との戦いを背景に歌われていたことが示されています。この意味は「犬」という御言葉にも示されています。なぜなら「犬」という言葉は、他宗教の国を蔑む意味があるからです。このため59編も、ダビデをはじめとする古代の信仰者が苦難の中で神に救いを祈り求めた歌が発展して共同体の詩に至ったと考えられています。

 またこの詩編には、「砦の塔」という御言葉が重ねて歌われています(10、17節)。古代のイスラエルはカナンに定着しつつあった時期に、自分たちの町を守るために砦を築きました。イスラエルの各地に砦が築かれ始めたのは、イスラエルが王国として統一された紀元前10世紀前後でした。エルサレムの第一神殿はこの時期に築かれたため、この詩編の原詩は第一神殿が建てられた時期に遡る可能性があります。

 さらに、この詩編で歌われている災いの描写(4、7〜8、15〜16節)や、自分の無実を神に申し述べる言葉(4〜5節)は、時と場を越えて全ての共同体に通じる意味があります。なぜなら私たちは、教会としても一般的な交わりでも、自分におぼえがない困難に直面する時に、神に対して潔白を申し立てることがあるからです。また私たちは一人の信仰者としても、周りに対して申し開きが全く出来ない状況の中で、神のみに無実を叫ぶこともあるのではないでしょうか。このため59編の御言葉は、いわれのない災いがふりかかっている全ての人々への励ましと慰めの意味があると言われています。

 この意味をおぼえて、教会としても一人の信仰者としても、思い掛けない苦難や悩みに直面する時には、「砦の塔」である神が私たちを守り導いておられる御業に信頼しつつ、59編の御言葉に導かれて、神をほめたたえる信仰生活を歩み続けてまいりたいと思います(10〜11、18節)。

 

詩編60編

 60編の前書きに記されている内容は、57〜59編と大きく異なっているため、この詩の原詩は前の三編とは違うグループに属していたと考えられています。また「包囲された町」(11節)、「神よ、あなたは、我らと共に出陣してくださらないのか」(12節)という御言葉には、古代のイスラエルが他国との戦いに負けたことが示されています。このような背景があるため、60編の原詩は、イスラエルが戦争に負けて苦難の中を歩んでいた時期の歌であったと考えられています。

 士師記には「デボラはバラクに言った。『立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先だって出て行かれたではありませんか』」と記されています。この御言葉には、カナン軍の指導者シセラが率いていた戦いの時に、神がイスラエルの指導者バラクよりも先に出陣したことが示されています(士師記4章14〜15節)。この御言葉に示されているように、古代においては、神が共におられるかどうかは戦争の勝敗に関わることでした。民数記13〜14章にも同じ内容が記されているため、神が戦争に伴っておられることは古代のイスラエルにとって切実な問題であったと考えられています。

また「ダビデが〜討ち取ったとき」(1節)という御言葉にはダビデが戦いに長けていたことが示されており、8〜10節の地名にはダビデが広い領地を治めていたことが示されています。この内容は12節と違うため、60編の原詩には、ダビデ以外の指導者が戦いに負けた出来事が背景にあると考えられています。

 このように60編全体は古代の戦争を背景に歌われた詩ですが、「戦い」という御言葉には、戦争や他者との争いという意味だけでなく、「罪との戦い」、「信仰を守るための戦い」、「死との戦い」という広い内容も象徴されています。この意味に照らして考えますと、古代のイスラエルの人々が、「神が先に出陣して下さる戦いには勝利する」と理解していたことは、私たちに先立って歩んでおられる神に信頼することに通じる意味があります。この意味を心に留めて、日常の様々な「戦い」に直面する中で、神が私たちに先立って「出陣して」下さり、私たちの歩みを守り導いておられる恵みに信頼する者とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編57編、58編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編57編58

2019年6月16日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない57編と58編を学びます。

 

詩編57編

 前書きの「指揮者によって」という御言葉には、この詩編が指揮者を必要とする多くの人々によって歌われていたことが示されています。「『滅ぼさないでください』に合わせて」という御言葉は57〜59編の前書きに記されているため、この言葉に付された旋律があったと考えられています。またこの詩編はダビデがサウルから逃れていた時の歌とされていますが、「指揮者によって」という御言葉には多くの人々が歌うという意味があるため、現在の形に至った後は神殿の大掛かりな祭儀で歌われていたと考えられています。

 57編全体は、「わたし」という個人が艱難に直面した時に救いを求める祈りの歌です。しかし「神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください」という定型文が6節と12節に繰り返されており、この詩節によって全体の内容が二つに分けられているため、この詩編は二組の会衆や二つの聖歌隊によって歌い交わされていた可能性があります。また「目覚めよ、わたしの誉れよ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう」(9節)という御言葉には、この詩編が、多くの楽器が備えられていた神殿(或いは大規模な会堂)で奏でられていたことが示されています。さらに「いと高き神」(3節)という御言葉は、天におられる神が全ての国々を治めておられる意味で他の詩編に用いられており、8〜12節は詩編108編の冒頭に並行箇所があります。このように他の詩編に共通する御言葉が収められているため、この詩編はダビデをはじめとする古代の信仰者が神の救いを祈り求めた言葉に共同体の祈りが加わり、神殿の祭儀や会堂の礼拝で奏でられる大規模な歌として整えられたと考えられています。

 57編がこのように発展した背景は、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、それぞれの歩みで直面する苦しみや悩みを抱きながら礼拝に導かれ、礼拝においては、自分の祈りが共同体の祈りとして昇華されるからです。また私たちは、信仰の共同体として聖書の御言葉を授かり、共に讃美歌を歌うことによって、神に祈りを聴き上げて頂くからです。この意味をおぼえて、「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」(8節)という御言葉に導かれて、苦難の中を歩んでいる時にこそ、礼拝で賛美の歌をうたう者とされるように祈り合いたいと思います。

 

詩編58編

 58編の始まりには、人間の世界に不条理な出来事があり、人間の裁きに公正さが欠けていることが歌われています(2〜3節)。「お前たち」(2〜3節)という御言葉はいずれも、「神々」(イスラエルの神以外の神々)を指す意味があるため、この詩には、イスラエルの神が真実であることに対して、他の神々が偽りであるという信仰の理解が含まれていると考えられています。この意味は、「神の矢に射られて衰え果て」というという御言葉にも示されています。なぜならこの御言葉は、他の神々を信じる他民族との戦いを背景に記されたと考えられているからです。また結びには、神がご自身に従う者を守るために、真実な裁きを行って下さる約束が告げられています(11〜12節)。冒頭と結びに囲い込まれている4〜10節には、現実世界の厳しさが毒々しい表現で伝えられています。このため58編全体は、偽りの神々ではなく真実な神のみに信頼して歩むことの大切さを示す歌として整えられたと考えられています。

 詩編150編全体には、神に信頼して歩むことの大切さが繰り返し歌われています(9〜12編、14編、37編、49編、73編、91編、94編等)。また神が裁き主であるという理解も多くの詩編に伝えられています(7編、9編、11編、96〜99編)。このため58編は、正しい裁きを祈り求める素朴な言葉を基として、神への信頼や悪を表現する言葉が加えられながら現在の形に至ったと考えられています。また古代において、神殿や会堂は礼拝を守る場でもあり、裁きを行う場でもありました。このため正しい裁きを祈り求める一連の詩編は、裁判が行われる前の式文として唱えられていた可能性もあります。

 このような背景は、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちの周りにも、不条理に思える出来事が起こり続けているからです。また人間がお互いを裁くことには、限界があるからです。多くの人々は、直接的に裁判に関わり合うことはありません。しかし私たちは、心の中で周りの人々を裁くことはないでしょうか。或いは様々な不条理に慣れてしまい、罪に対して鈍くなっていないでしょうか。また裁判制度を、他人事のように思っていないでしょうか。この意味をおぼえて、厳しい現実の中で、真実な裁きを行う神のみに信頼し続けることの大切さを心に刻みながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 14:59
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聖書研究会 「詩編54編、56編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編54編56

2019年5月26日 渡辺善忠

 

 今月はまだ学んでいない54編と56編を学びます。

 

詩編54編

 サムエル記上16章には、神の命を受けたエルサレム神殿の祭司サムエルが、ダビデに「油を注いだ」と伝えられています。油を注ぐ儀礼はイスラエルの王や祭司として任職される意味があるため、ダビデはこの後に王への道を歩むことになりました。サウル王は、当初は自分に仕えていたダビデが自分の後を受け継ぎつつあった状況を受け入れられず、ダビデを疎んじるようになりました。このような状況は「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」(2節)という御言葉に伝えられています。なぜならこの御言葉には、サウル王から逃れたダビデが身を寄せていたジフ人たちが、ダビデが隠れていることをサウルに密告した出来事が示されているからです(サムエル記上23章参照)。

 前書きにはこのような背景がありますが、本文にはこの出来事を伝える具体的な内容が含まれておりません(2節)。また「異邦の者」(5節)という御言葉はイスラエル以外の人々を示す意味であるため、この詩編は元々、イスラエルが近隣諸国との戦いに臨んだ時に戦勝を祈った詩であると言われています。このため54編は、ダビデの苦難を伝える前書きを含めて、元来の詩が長期間に渡って整えられて現在の形に至ったと考えられています。従って聖書を研究する視点では、ダビデの歩みと現在の内容には隔たりがあります。

このことに対して黙想的な視点では、「苦難に直面した時に身を隠す」という御言葉は、全ての人々にとって身近な意味があります。なぜなら私たちも、「異邦の者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者がわたしの命をねらっています」と神に訴えることがあるからです(5節)。また私たちも、苦難や悩みに直面している時には、サウルから逃れたダビデのように、敵の面前から逃れて神に祈ることがあるからです。

このような意味は、「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ、恵み深いあなたの御名に感謝します」という御言葉にも示されています(8節)。なぜなら「いけにえをささげ」という御言葉は、「礼拝を捧げる」という意味があるため、この御言葉には、礼拝の時が、神がご用意下さった「隠れ家」であり、苦難に直面した時の祈りの場であることが示されているからです。この意味をおぼえて、苦難の内にある時には、礼拝において神の御許へ身を寄せて、神の助けを祈りつつ歩むことの大切さを思い起こしたいと思います。

 

詩編56編

 この詩編にもダビデが苦難を受けたと伝えられており、前書きの御言葉は、列王記上21章を背景として記されました(1節)。また「はるかな沈黙の鳩」(1節)という御言葉は、「聖所から遠く離れた人々のために」とも訳せるため、この詩編は、聖所(エルサレム神殿)から遠く離れた地域においても、ユダヤ教の会堂で行われていた礼拝で広く歌われていたと考えられています。56編が広い地域で歌われていたことは、2〜3節がエレミヤ書の御言葉に通じる意味があることや、9節が詩編69編や139編、出エジプト記、マラキ書、ダニエル書の御言葉に通じる意味があることに示されています。また締め括りの御言葉は、詩編36編に並行箇所があります。このように他の書物にも同じ内容の言葉が多く収められているため、この詩編の原詩は早い時期から広い地域で歌われていたと考えられています。

また旧約聖書全体には、パレスチナ地方の西側の海洋民族であったペリシテ人がイスラエルとしばしば敵対していたと伝えられています。このため、54編では個人の苦難が歌われていることに対して、56編の原詩は、ダビデを中心としたイスラエル全体が、ペリシテと敵対関係を深めていた時代に歌われていたと考えられています。このような状況の中で、「神の(主の)御言葉を賛美します」(5、11節)という御言葉が繰り返し歌われているため、この詩の主題は、国としても一人の信仰者としても、苦難の中で神の御言葉に信頼して歩むことであると言われています。

 これらの背景に照らして考えますと、56編は、ダビデを中心とするイスラエル全体がペリシテ人と対立していた原詩が、旧約聖書の元となった書物が書かれていた紀元前6世紀以降に発展し、エルサレムに第二神殿が建てられた後は、神殿でも町ごとの会堂の礼拝でも広く用いられていたと考えられています。

 詩編が旧約聖書と共に発展したことは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら、詩編や讃美歌は聖書の内容を伝えるための詩歌であり、翻訳などを含めて、聖書にそって発展し続けているからです。この意味を心に留めて、礼拝で与えられる聖書の御言葉と讃美歌を歌うことによって神の救いの御業に感謝を捧げ、救いの歴史を歌い伝え続ける器とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 14:57
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