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聖書研究会 「詩編92編、103編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編92編103

2018年2月18日 渡辺善忠

 

 今月は2月4日と11日の礼拝で交読した92編と103編を学びます。

 

詩編92編(2月4日)

 2月4日はヨハネ福音書5章1〜18節の御言葉によって、主イエスが安息日に病を癒された御業を辿りましたので、前書きに「安息日に」と記されている92編を交読致しました。神殿や会堂で安息日に礼拝が守られることが広く定着したのは第二神殿以降(紀元前6世紀後半)であったため、92編は、詩編全体が編纂された紀元前6世紀以降に現在の形に整えられたと考えられています。

92編の編纂者は、神が七日間に渡って天地創造の御業をなさった後に安息なさった出来事を象徴的に示すために、「主」という御言葉を七回用いました。「安息日」という御言葉がこのように説き明かされていることは、旧約聖書が編纂された過程に関わりがあります。なぜなら創世記と詩編はいずれも、紀元前6世紀以降に現在の形に編纂されたからです。天地創造の出来事は他の詩編にも歌われているため、これらの詩編は創世記と同じ時代に編纂されたと考えられています。

またこの詩編には、神に逆らう者が地上にいても、信仰者が完全な安息へ導かれることの約束が示されています。神に逆らう者が地上にいることは、「神に逆らう者が草のように茂り、悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても、永遠に滅ぼされてしまいます」(8節)という御言葉に示されています。また、「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう」(11節)という詩の中の「油を注ぎかけてくださる」という御言葉は、神が信仰者を救いへ導く意味があるため、この御言葉には、信仰者に確かな安息が授けられることを伝える意味があります。

 この内容はいずれも、私たちにとって身近な意味があります。なぜなら私たちは、主イエスが復活されたことを祝う日曜日を安息日として礼拝を守っており、復活の主は私たちの日々の歩みを永遠の安息へつながる時として導いておられるからです。この意味を心に留めて、「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」(1節)という御言葉に導かれて、安息日の礼拝で主への感謝を捧げましょう。

 

詩編103編(2月11日)

 2月11日の礼拝で与えられましたヨハネ福音書5章19〜30節の御言葉には、主イエスが私たちに命を与えて下さる神であることが告げられているため、「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる」(3〜4節)という御言葉が収められている103編を交読致しました。

 旧約聖書には、天地創造の出来事をはじめとして、父なる神が命を授けて下さる恵みが様々な書物で伝えられています。しかし「命を墓から贖い出してくださる」という御言葉に示されているように、死んだ者に命が与えられることについては、書物によって理解が異なります。死者に命が与えられることについて異なる理解があることは、それぞれの書物の元となる資料が書かれた時代に関わりがあります。なぜなら、紀元前6世紀にイスラエルの国が滅ぼされる前の信仰者たちは、素朴な信仰の理解を持っていたことに対して、国が滅ぼされた時代の信仰者たちは、前の世代の人々よりも、死後の歩みについて真摯に考えるようになったからです。このような背景があるため、神が死者に命を与えるという理解は、イスラエルの国が滅ぼされ、再び国が建てられた紀元前6世紀後半以降に発展したと考えられています。

 またこの詩編に収められている「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた」(13節)という御言葉には、創世記の冒頭に伝えられている天地創造の御業が示されています。92編の記述でふれたように、創世記と詩編は紀元前6世紀以降に編纂されたため、103編も創世記と同時期に現在の形に整えられたと考えられています。

 神が命を与えて下さる恵みが、創世記には通常の文体で、詩編では歌の形で伝えられていることは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら礼拝では、聖書の御言葉は通常の文体の説教で語られ、讃美歌では歌によって神の御業が伝えられるからです。この意味をおぼえて、礼拝全体で神の恵みを受け継ぎ、伝えることの大切さを心に留めながら、詩編を交読致しましょう。

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聖書研究会 「詩編と賛美歌」

巣鴨教会聖書研究会 詩編と賛美歌

〜神殿の祭儀と初代教会/第二世代の教会の状況をふまえて〜

2018年1月21日 渡辺善忠

2015年1月の聖書研究会で詩編を学び始めてから三年経ちましたので、今回は「閑話休題」として、詩編が賛美歌として受け継がれた経緯を学びたいと思います。

 

1.神殿の祭儀と詩編

 すでに学びましたように、詩編は、エルサレムに第一神殿が建てられた紀元前10世紀頃から編纂が始まりました。この時代の詩編は、現在の構成とは異なり、内容や作者によってまとめられていたと考えられています。このことは神殿の祭儀にそくした方法でした。なぜなら神殿では、一回の祭儀に複数の詩編が用いられていたため、祭司にとっては、祭儀が始まる時の詩編、祭儀の内容にそくした詩編、祭儀を締め括る詩編等、内容別に分類されているほうが実用的であったからです。

 また詩編の中には、アルファベットの順に詩が整えられている数え歌や、古代イスラエルの歴史が歌われているものが含まれています。これらの詩編は、神殿だけでなく家庭の礼拝や子どもの教育用にも用いられていたと言われています。例えば、出エジプトの出来事を祝う過越の祭は、神殿や会堂ではなく、家庭で祝われる習慣があり、この時には家長(おもに父親)が「家庭礼拝」を司っていました。このため出エジプトの出来事を伝える詩編は、家庭でも歌われていたと考えられています。現在の詩編では、古代イスラエルの歴史を伝える詩は分散されていますが、第一神殿時代には同じ項目にまとめられていた可能性があると考えられています。

 ところが第二神殿時代に至ると、第一神殿時代から受け継がれた詩編全体は、五つの項目にまとめられることになりました。詩編が五つにまとめられたことは、同じ時代に旧約聖書が編纂され始めたことに関わりがあります。なぜなら旧約聖書は、創世記から申命記までの「モーセ五書」を土台としているため、詩編はモーセ五書に基づく祭儀に用いられるために、五つの項目に再編纂されることになったからです。

 このように詩編が編纂される方法が変化したことを心に留めながら、初代教会が詩編を賛美歌として受け継いだことを学びたいと思います。

 

2.教会の礼拝と詩編

最初期の教会はユダヤ教の会堂で礼拝を守っていたため、礼拝全体の構成はユダヤ教の会堂から受け継がれたと考えられています。また当初は教会で創られた賛美歌が少なかったため、詩編がおもな賛美歌として歌われていたと言われています。

このような状況は、コロサイの信徒への手紙の以下の御言葉に示されています。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、論し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章16節)

ここに伝えられている「詩編」は詩編のこと、「賛歌」は教会で創作された賛美歌のこと、「霊的な歌」は即興的な歌であったと考えられています。コロサイ書は第二世代の教会で記された手紙であり、ここには「詩編」が最初に記されているため、初代教会から第二世代の教会では、詩編が多く歌われていた賛美歌ようです。同じ時代に書かれたエフェソの信徒への手紙の5章19節にも同様の御言葉が収められているため、コロサイとエフェソの教会は、同じ状況であったと言われています。

 詩編が初代教会の賛美歌として用いられていたことは、改革長老制度の伝統を受け継ぐ教会にとって特に大切な意味があります。なぜなら、改革長老制度のルーツであるカルヴァンは、初代教会から二世代目の教会で詩編が多く歌われていたことを尊重して、ジュネーヴで宗教改革運動を始めた当初には、詩編だけを賛美歌として用いていたからです。この詩編は後に「ジュネーヴ詩編歌」としてまとめられました。

 巣鴨教会の聖書研究会では現在、2〜3編ずつ詩編を学び続けておりますが、旧約時代から第二世代の教会にかけては、礼拝の時に数編の詩編が賛美歌として歌われていたことを心に留めながら、詩編を学び続けてまいりたいと思います。

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聖書研究会 「詩編18編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編18編

2017年12月17日 渡辺善忠

 

 1月はすでに学んだ詩編を交読するため、今月はまだ学んでいない詩編18編を学びます。この詩編は比較的長いため、18編のみを丁寧に学びたいと思います。

 

詩編18編

(1)全体の意味と成立過程について

 この詩編には、戦いの出来事を伝える以下の御言葉が記されています。「主はわたしの岩、砦、逃れ場」(3節)、「主の矢は飛び交い」(15節)、「敵は力があり」(18節)、「あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし」(30節)、「手に戦いの技を教え」(35節)、「敵を追い、敵に追いつき」(38節)、「敵からわたしを救い」(49節)。これらの御言葉の他にも戦いを背景とする言葉が多く収められているため、この詩の原詩は、イスラエルの内外の戦いに赴く際の様々な祈願の歌であった考えられています。

 また18詩全体は、サムエル記下22章に収められているダビデの詩や詩編116編、144編に類似していることに加えて、46節とミカ書7章17節、34節とハバクク書3章19節、31節と箴言30章5節にも並行句があるため、これらの御言葉はいずれも、神殿祭儀の式文であった考えられています。

 さらにこの詩には、戦いを直接的な背景としていない素朴な苦しみや悩みを伝える御言葉も収められています。これらの御言葉には、古の信仰者や詩人が困難に直面していた時の素朴な嘆きが伝えられています。

このように、18編には神殿と一般的な信仰生活の両面を背景とした御言葉が用いられているため、この詩編は、戦いに赴く時の祈願や信仰者の素朴な嘆きを託した様々な原詩が、ダビデが王であった時代にユダヤ教の祭儀で用いられるようになり、第二神殿時代以降に現在の長い形に編纂されたと考えられています。

 

(2)「戦い」の歴史的な背景について

 前口上に記されている「主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から救い出されたとき」という御言葉は、サムエル記下22章1節に並行箇所があるため、この詩の原詩の一つは、ダビデとサウルの戦いを背景とした歌であったと考えられています。しかし、ミカ書やハバクク書に並行箇所がある御言葉は、イスラエルの国全体が他国と戦っていた時期に記されたと考えられています。このため18編に伝えられている「戦い」の年代や内容は一様ではなく、時と場は多岐に渡っていると言われています。

 戦いの背景が多様であることは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、個人の内的な戦いや親しい関係の人々と諍いを経験することがあり、古代から現代に至るまで、国や民族の争いは絶えることがないからです。このように「戦い」には、歴史的背景を越えた広い意味があるため、18編を現在の形に編纂した人々は、「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う」(2節)という冒頭の御言葉によって、人間の力を捨てて神のみに信頼することの大切さを歌ったと考えられています。

 

(3)ダビデとメシア預言

この詩の締め括りに記されている「油注がれた人を、ダビデとその子孫をとこしえまで慈しみのうちにおかれる」(51節)という御言葉には、ダビデの子孫に「油注がれた人」=メシア(救い主)があらわれることを告げる預言の意味があります。「油注がれた人」という御言葉は元々、王が即位する時に祭司に油を注がれて任職される意味の言葉でした。しかしイスラエルが滅ぼされた紀元前6世紀以降は、救い主を待ち望むことを伝える希望を伝える意味で理解されるようになりました。この意味はユダヤ教から初代教会に受け継がれ、この御言葉は、神の御子イエスがメシアとしてお生まれになる預言として理解されるようになりました。このためマタイ福音書の冒頭には、ダビデの子孫として神の御子イエスがお生まれになったことを示す系図が収められています。この意味を心に留めて、詩編18編の御言葉によって、神が、戦いが絶えない世界を救う方として御子イエスを遣して下さった恵みに感謝を捧げながら、クリスマスへ備えましょう。

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聖書研究会 「詩編24、27編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編24、27編

2017年11月12日 渡辺善忠

 

 今月は12月17日に交読する27編と24日のクリスマス礼拝で交読する24編を学びます。

 

詩編27編(12月17日)

 12月17日はマタイによる福音書1章18〜25節の御言葉によって救い主を待ち望むつつクリスマスへ歩みますので、「主を待ち望め」(14節)という御言葉に導かれて27編を交読することに致しました。

 「主を待ち望め」という御言葉は、イスラエルの人々が危機的な状況の中を歩んでいる時の励ましの言葉として42編や130編にも使われています。27編を含めてこれらの詩編は、イスラエルが滅ぼされて多くの人々がバビロンで捕虜とされていた時代に記されたと考えられています。このため「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」という御言葉や、「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう」という御言葉にはいずれも、イスラエルを支配していた新バビロニア帝国の人々を恐れるなという意味があります(1節)。また「命のある限り、主の家に宿り」という御言葉には、エルサレムの神殿から離れていた時期に、「主の家」(=エルサレム神殿)を思い起こしていた人々の気持ちが示されています。さらに「仮庵」、「幕屋」は、エルサレム神殿を失った人々が礼拝を捧げる場をあらわす意味があり、「主よ、あなたの道を示し、平らな道へ導いてください」という御言葉には、捕囚から解放されてエルサレムへ戻る道を求める切なる思いが伝えられています(11節/イザヤ書40章3〜4節参照)。

 このような歴史的背景は、御子イエスがお生まれになった紀元1世紀の時代にも関わりがあります。なぜならイスラエルは紀元前1世紀頃からローマ帝国の支配を受け始め、紀元後70年にはエルサレム神殿がローマ帝国によって再び破壊され、国全体が滅ぼされてしまったからです。

 私たちは幸いに、迫害を受けたり、捕虜とされることはありませんが、様々な力に支配されたり、目に見えない形で迫害を受けることがあるかもしれません。この意味をおぼえて、地上のあらゆる力を恐れることなく、主を待ち望む信仰者として歩み続けることの大切さを心に留めながら27編を交読致しましょう。

 

詩編24編(12月24日)

 12月24日は17日に引き続き、マタイによる福音書1章18〜25節の御言葉によって主イエスこそが真の王であることをおぼえながらクリスマス礼拝を守る予定ですので、「栄光に輝く王」(7〜8節)という御言葉が収められている詩編24編を交読することに致しました。

 「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」(3節)という御言葉には、信仰と政治の両面でイスラエルを治める人物があらわれることへの期待が示されています。また「主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる」(5節)という御言葉には、神がイスラエルを治める者を守り導く恵みが示されています。さらに「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」(7、9節)という御言葉は、イスラエルの指導者がエルサレムの神殿で任職を受ける時に用いられていたと言われています。この御言葉は後半の7〜10節に二回繰り返されているため、エルサレム神殿の祭儀では「掛け合い」のように歌われていた可能性があると考えられています。

 ネヘミヤ記12章27〜43節には、エルサレムの第二神殿が落成する時に、聖歌隊が城壁の左右に分かれてステレオのような音響で賛美を捧げたと伝えられています。このような記録があるため24編は、大掛かりな祭儀の時に二組の聖歌隊によって歌われたと考えられています。ユダヤ教〜教会の歴史で再び二重合唱が用いられるのは、教会がローマ帝国の国教となった後のことであるため、古代のエルサレム神殿では、早い時期から発展した音楽の様式が用いられていたと考えられています。

 詩編24編にこのような背景があることは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら詩編を交読することは、二組の聖歌隊で詩が歌い交わされたことを受け継ぐ意味があるからです。この意味を心に留めて、詩編24編を高らかに交読することによって、真の王イエス・キリストの降誕を共々に喜び歌いましょう。

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聖書研究会 「詩編15、17編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編15、17編

2017年10月15日 渡辺善忠

 

 10月は聖書研究会で学んだ詩編を交読致しますので、まだ学んでいない15編と17編を学びます。

 

詩編15編

 冒頭に記されている「幕屋」は、古代のイスラエルが遊牧民族であった時代に、移動しながら礼拝を捧げていた場所でした。また「聖なる山」は、神がモーセへ十戒を授けた場所でした。このような背景があるため15編は、エルサレム神殿に入り、祭儀(礼拝)を捧げる時の式文であったと考えられています。

 また2〜5節前半には、信仰生活を顧みる戒めの言葉が連ねられています。この中の「舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人」(3節)という御言葉は、箴言10章18節に並行箇所があるため、元々は諺のような教えであったと言われています。またイスラエルには古代から借金や賄賂についての戒めがあるため、「金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」(5節)という御言葉は古い時代の教えに遡ると考えられています。

15編にはこのような御言葉が含まれているため、この詩編は、古代の教えや戒めが祭儀を捧げるための心構えを伝える式文として整えられ、神殿に入り、祭儀が始まる時に歌われていたと考えられています。

 このような背景は、後のローマ・カトリック教会の制度に関わりがあります。なぜならローマ・カトリック教会では、ミサ(礼拝)にあずかる前に懺悔を行い、信仰生活の過ちについて神に告白することが定められているからです。プロテスタント教会には「懺悔」という制度はありませんが、礼拝の前奏の時に一週間の信仰生活を顧みること、礼拝の前半に詩編を交読する時に御言葉によって心を低くされること、牧会祈祷(牧師による執り成しの祈祷)の時に、自らの過ちを心の内で神へ告白することは、「懺悔」のプロテスタント的な理解と実践であると考えられています。

 この意味をおぼえて、15編の御言葉に導かれて一週間の信仰生活を顧みると共に、礼拝の始まりの時に謙った心へ導かれることの大切さを心に留めたいと思います。

 

詩編17編

 この詩編には、神に信頼する詩人が敵から救われることを願った切なる祈りが満ち溢れています。敵については、.ぅ好薀┘襪涼罎砲い訶対者、▲ぅ好薀┘覦奮阿稜害者、という二つの説があり、どちらかを確定することは難しいと考えられています。また敵からの助けを願った祈りが、「主よ、御手をもって彼らを絶ち」(14節前半)という願いで頂点に達した直後に、食べ物についての素朴な願い(14節後半)が記されていることに文脈の不具合を指摘する説もあります。このため17編は、様々な敵に直面した時に助けを求めた祈りの言葉が長期間に渡って一つの詩としてまとめられたと考えられています。

この詩編の前半には、神の正しい裁きを求め、潔白を主張する言葉が収められています(1〜5節)。また続く段落には、神の守りを求めると共に、悪しき敵の描写が伝えられており(6〜12)、後半には敵を滅ぼすことへの強い願いが記されています(13〜14節前半)。このように祈りの内容が展開する中で、全体を読み解く鍵は「主よ、正しい訴えを聞き」(1節)という御言葉であると言われています。なぜなら「正しい訴え」という御言葉には「神の義」という意味が含まれており、この御言葉には、どのような状況の中でも、義しい方である神への信頼を持ち続けることの大切さが示されているからです。このような意味があるため、「正しい訴え」という御言葉は、この詩編が神殿で歌われるために整えられた時期に、全体をまとめるために加えられた言葉であると考えられています。

17編にこのような背景があることは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちの信仰生活においても、「敵」は私たちの内にも外にも存在することがあるからです。この意味を心に留めて、詩編交読を含めた聖書の御言葉によって、様々な「敵」を退け、神への信頼を持ち続ける者とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会 「詩編46、49編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編46、49編

2017年9月17日 渡辺善忠

 

詩編49編(9月24日)

 9月24日の主日礼拝(合同礼拝)ではヨハネによる福音書1章29〜34節の御言葉に基づいて、御子イエスが神の小羊として十字架で屠られた贖いの御業について学ぶため、「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(9節)という御言葉が収められている詩編49編を交読致します。

 旧約聖書の時代に「贖う」という御言葉は、「金銭を支払って奴隷を買い戻す(解放する)」という意味がありました。神はエジプト人の奴隷であったイスラエルの人々を救い、再びパレスチナ地方へ導いて下さったため、「贖う」という御言葉は、神の救いの御業を示す広い意味で用いられるようになりました。しかしパレスチナ地方へ導かれたイスラエルの人々は、国が栄えるようになると神の救いの御業を忘れて「財宝」や「富」(7、11節、17節参照)に頼るようになりました。イスラエルの国が最初に栄えたのはダビデやソロモンが国を治めた紀元前10世紀頃であり、第一神殿はこの時期に建てられたため、財宝や富を戒める意味の御言葉はこの時代に遡ると考えられています。

また「格言」や「竪琴」という御言葉にも、この詩の原詩が第一神殿に遡ることが示されています。なぜなら旧約聖書の「格言集」である箴言にも第一神殿時代の言葉が伝えられており、竪琴を奏でる音楽家のルーツはダビデ王であるからです。このため49編は、財宝や富への批判が高まった第一神殿時代の原詩が受け継がれ、第二神殿が築かれた後にイスラエルが再び栄えた時代に現在の形へ発展したと言われています。

 主イエスが弟子たちにおっしゃった「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マルコ福音書8章36〜37節)という御言葉には、49編に通じる意味があります。なぜなら代々の国々も一人の人間も、富の虜(奴隷)になると、神への信頼から離れてしまうからです。私たちはこの意味をおぼえて、神が御子イエスを地上に遣わし、十字架によって私たちを贖って下さった御業のみに救いがあることを心に刻みたいと思います。

 

詩編46編(10月29日)

 46編は2015年にも聖書研究会で学びましたが、宗教改革運動を始めたルターが愛した詩編として毎年10月31日の直前の主日に交読していますので、今一度学びを深めたいと思います。

以前にも学びましたように、神が「わたしたちの砦」という御言葉は、46編以外の多くの詩編にも用いられています。イスラエルの町は城壁によって守られていたため、「砦」という御言葉は元々、神が町を守る意味で使われていたと考えられています。また「聖所」はエルサレム神殿を、「都」はエルサレムの町を指す御言葉です。このため46編の原詩は、堅固な城壁で守られているエルサレム神殿が、イスラエルの信仰の中心であることを伝える素朴な詩であったと考えられています。

また古代のパレスチナには、シナイ山をはじめとする活火山が存在したため、「山々が揺らいで海の中に移る」(3節)、「海の水が騒ぎ、沸きかえり〜山々が震える」(4節)という御言葉には、火山活動を神の御業と理解していたイスラエルの人々の理解が示されていると考えられています。46編の御言葉にはこのような背景があるため、この詩編は、古代の信仰の理解が受け継がれ、エルサレムの第一〜第二神殿の時代に整えられて現在の形に至ったと考えられています。

 このような背景は、ルターが宗教改革運動を始めた時代に通じる意味があります。なぜなら現在のヨーロッパ文化圏も「砦」によって町の境界が定められ、町の中心に教会が建てられているからです。また「山々が震える」ことは、ルターをはじめとする改革者たちにとっては、巨大な山である「ローマ・カトリック教会が震える」ことであったからです。このような寓意があるため、ルターはこの詩によって、教会の歴史が大きく変わりつつあることを、神の御業として理解したと言われています。この意味を心に留めて、教会としても一人の信仰者としても、「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ」(7節)ような大きな出来事が起こった時にも、「わたしたちの砦」である神に信頼しつつ教会生活を歩み続けてまいりましょう。

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聖書研究会「詩編28、76編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編28編、76

2017年7月16日 渡辺善忠

 

詩編28編(7月16日)

 7月〜8月は聖書の御言葉に基づいて洗礼について学びますので、16日は、救い主イエスの働きを預言する「主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救いください、あなたの民を」(8〜9節)という御言葉が含まれている28編を交読致します。

 28編の御言葉には、「わたし」という一人称単数形が多く用いられています。また「至聖所に向かって手を上げ」(2節)という御言葉には、この詩編が神殿の祈祷文として用いられていたことが示されています。これらの御言葉が収められているため、28編は元々、神殿で個人的な祈願を行う時に用いられていたと考えられています。

また「神に逆らう者、悪を行う者」(3節)という御言葉には、イスラエルの中に不信仰な者がいたことが示されています。さらに、「彼らは仲間に向かって平和を口にしますが、心には悪意を抱いています」(3節)という御言葉には、不信仰な人々が詩人(或いは祈祷請願者)と同じ共同体で、表面的には良き交わりを保っていたことが窺えます。このような状況が示されているため、この詩編は、公の祭儀よりも、私的な請願を行う時に用いられていた可能性が高いと言われています。

 このような背景に対して、「お救いください、あなたの民を」(9節)という祈りの言葉は、共同体全体(イスラエル)のための祈りであるため、この詩は、個人的な願いから広い意味へ発展したと考えられています。このことは、私たちにも大切な意味があります。なぜなら洗礼は、個人の救いだけにとどまらず、教会全体の救いに関わる礼式であるからです。この意味をおぼえて、私たちが「教会」という共同体として神の救いの御業にあずかっていることを心に留めながら28編を交読致しましょう。

 

詩編76編(7月23日)

 「地の貧しい人をすべて救われる」(10節)という御言葉には、神が全ての人々を救いへ招いておられる御業が示されているため、23日はこの詩編を交読致します。

 前口上に指定されている「指揮者によって。伴奏付き」という御言葉には、この詩編が、指揮者と伴奏を必要とする多くの人々によって歌われていたことが示されています。また2〜7節の御言葉には、古代のイスラエルが戦乱の中を歩んでいた状況が示されています。このため76編は、戦乱の歴史を伝える素朴な詩歌が発展し、第一神殿〜第二神殿の大掛かりな祭儀で用いられるに至ったと考えられています。

 このような背景は、「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる」(10節)という御言葉にも示されています。なぜならこの御言葉には、神が、イスラエルに敵対する国々を滅ぼすことに加えて、イスラエルを超えて救いの御業をなさる意味が示されているからです。紀元前6世紀にイスラエルが滅ぼされた前後の時期には、パレスチナ地方から他の地域に逃げた人々がいたため、この御言葉には、イスラエルの人々が広い地域に散らされた状況が示されていると考えられています。

 このような背景は、教会の歴史にも関わりがあります。なぜなら教会は、初代教会から二世代目の時代に、ローマ帝国の迫害によって多くの人々が広い地域へ散らされた出来事によって広く発展したからです。このような歴史を経て、現在は世界の全ての地域に教会が建てられており、私たちもその末席に連なっています。この意味をおぼえて、神が「地の貧しい人をすべて救われる」ために、教会としても一人の信仰者としても私たちを用いておられる御業を心に留めながら、76編を交読致しましょう。

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聖書研究会「詩編149〜150編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編149〜150編

2017年6月18日 渡辺善忠

 

 6月11日の51編、18日の107編はすでに学んだため、今月は25日に交読する150編と149編の二編を学びます。

 

詩編149編

 146〜149編には、「ハレルヤ」(=神を賛美せよ)という御言葉に導かれて、詩編全体の内容が伝えられており、150編ではシンプルな言葉で神への賛美が歌われています。このため詩編を現在の形に編纂した人々は、146〜149編によって詩編全体の内容を要約し、結びの賛美として150編を収めたと考えられています。

 149編全体は勝利の響きで満ちているため、この詩は、イスラエルの人々が捕虜とされていたバビロンから解放され、エルサレムに戻った時期に歌われていたと考えられています。このような背景は、三回に渡って記されている「主の慈しみに生きる人」という御言葉に示されています(1、5、9節)。なぜならこの御言葉は、エルサレム神殿を再建していたグループを指す呼称であったため、149編は、神殿が再建されることを鼓舞するために歌われていたと考えられているからです。

 また「伏していても喜びの声をあげる」(5節)という御言葉には、祭儀の中で神を拝しながら賛美を歌った所作が反映していると言われています。このため149編は、エルサレム神殿が再建された後の祭儀でも歌われていたと考えられています。

 149編がこのような経緯で編纂されたことは、現代の教会にとって大切な意味があります。なぜなら賛美歌は、礼拝で歌い継がれることによって発展する詩歌であるからです。この意味を心に留めて、私たちの教会が良き賛美を神へ捧げる器として奏でられるように祈り合いながら、賛美歌を歌い継いでまいりましょう。

 

詩編150編(6月25日)

 6月25日はペトロの手紙一1章3〜12節の御言葉によって、全ての人々が神の救いの御業へ招かれている恵みを分かち合うため、「息あるものはこぞって、主を賛美せよ」(6節)という詩に導かれて、150編を交読することに致しました。

 「聖所」という御言葉には、詩編が「聖なる所」(=神殿、ユダヤの会堂、教会)で歌われるために編纂されたことが示されています。また「大空の砦」という詩的表現には、「聖所」を越えて詩編が広く歌われることへの希望が示されています。

 さらに、「角笛」、「琴」、「竪琴」(3節)、「太鼓」、「弦」、「笛」(4節)、「シンバル」(5節)は、詩編を含めて、旧約聖書全体に用いられている楽器です。これらの楽器と呼応して、人の声によって「神を賛美せよ」という歌詞が繰り返し記されていることに加えて、「息あるものはこぞって、主を賛美せよ」と記されているため、これらの御言葉には、被造物全体が神を讃えるための存在であることが示されています。また「踊りながら」(4節)という御言葉には、「踊り」も賛美に含まれることが示されています。このような意味があるため、150編には、神の創造の御業に応えて、あらゆる方法で神へ賛美を捧げることの大切さが伝えられていると考えられています。

 このような背景は、ペトロの手紙の御言葉にも示されています。なぜならこの日に学ぶ御言葉には、全ての人々が神の御業に招かれ、神を賛美する者とされることの大切さが説かれているからです。この意味を心に留めて、私たちの教会が、神の創造の御業に応える賛美の器とされるように祈り合いながら、詩編全体の締め括りとして収められた「頌栄」として150編を交読致しましょう。

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聖書研究会「詩編20,48編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編20編、48編

2017年5月28日 渡辺善忠

 

詩編20編(昇天日/5月28日)

 5月28日は復活の主が天に昇られたことをおぼえて礼拝を守ります。「ヤコブの神があなたを高く上げ」(2節)という御言葉は主イエスの昇天を指し示す意味があり、「主は油注がれた方に勝利を授け」(7節)という御言葉は、神が「油注がれた方」(=救い主イエス)に勝利を授ける意味があるため、この日は詩編20編を交読致します。

 詩編20編は元々、為政者や軍隊の指導者が職に任ぜられる時に用いられていたと考えられています。このような背景は、「聖所から助けを遣わし」(3節)という御言葉や、「旗を掲げることができるように」(6節)と御言葉に示されています。なぜなら「助けを遣わし」という御言葉は戦いを助ける意味があり、「旗を掲げる」という御言葉は、戦いに勝利する意味があるからです。また、「王に勝利を与え〜我らに答えてください」(10節)という御言葉の中の「我ら」という御言葉には、戦いの指導者が職に任ぜられる礼式に、多くの民が連なっていたことが示されています。

 さらに「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もある」(8節)という御言葉には、エジプトやバビロニア帝国が戦車や騎馬隊を誇っていたことが背景にあると考えられています。このことに対して、「我らは、我らの神、主の御名を唱える」(8節)という御言葉には、軍事力ではなく神を信頼することの大切さが示されています。

 詩編20編にこのような歴史が刻まれていることは、昨今のアジア情勢にとって大切な意味があります。なぜなら、外交は本来、軍事力を誇ることによるのではなく、信頼関係を築くことが土台であるからです。この意味をおぼえて、現代の為政者たちが心を低くする歩みへ導かれるように祈り合いながら詩編20編を交読致しましょう。

 

詩編48編(ペンテコステ/6月4日)

 今年は6月4日にペンテコステ(聖霊降臨日)を記念する礼拝を守ります。「神の都」(2節)、「シオンの山、力ある王の都」(3節)、「主の都」、「神の都」(9節)という御言葉にはいずれも、聖霊が降った場所であるエルサレムが示されており、「賛美は御名と共に地の果てに及ぶ」(11節)という御言葉は、聖霊によって教会が地の果てまで建てられることを預言する意味があるため、この日は48編を交読致します。

 この詩編には「神の都」であるエルサレムを讃える音調が満ちているため、「シオン賛歌」(エルサレム賛歌)と呼ばれています。旧約聖書では、エルサレムに第一神殿が建てられた時代が理想的に描かれているため、48編の原詩は、第一神殿が存在した紀元前10世紀〜6世紀に遡ると考えられています。このような背景は、「彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った」(6節)という御言葉に示されています。なぜならこの御言葉には、エルサレムに第一神殿が建てられた前後の時代に、イスラエルが他の国々との戦いに勝利していたことを背景に記されたと言われているからです。

 このような歴史的背景に加えて、48編は詩的に洗練された言葉が多く使われているため、原詩が時代を経て発展した後に現在の形に整えられたと考えられています。

 エルサレムが信仰の中心的な場所と考えられていたことは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら、古代のイスラエルの人々がエルサレム神殿を中心として信仰生活を営んでいたことは、私たちにとっては、教会を中心として信仰生活を歩む意味があるからです。この意味を心に留めて、神が私たちの教会をご自身の「都」として下さる恵みを感謝して受け入れながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 17:30
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聖書研究会「詩編13〜14編」

巣鴨教会聖書研究会 詩編13〜14編

2017年4月30日 渡辺善忠

 

詩編13編

 13〜14編の作者はダビデに帰されておりますが、二編とも苦しみや嘆きが歌われています。二編の内容は一般的な嘆きであり、「指揮者によって」、「賛歌」という御言葉には、この歌が多人数で用いられていたことが示されています。このため13〜14編は、苦しみや嘆きを執り成す祭儀で歌われていたと考えられています。

 神が信仰者を「忘れておられ」、「御顔を隠しておられる」という御言葉は、紀元前6世紀にイスラエルが滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンで歩んでいた時代に使われていました(2節)。また「敵はわたしに向かって誇る」(3節)、「敵が勝ったと思うことのないように」(5節)という御言葉にも、イスラエルが戦争に負けた出来事が示されています。さらに、「主はわたしに報いてくださった」(6節)という御言葉は、イスラエルの人々が捕虜から解放されたことを伝える意味があります。イスラエルの人々は紀元前6世紀に約50年間捕虜とされていたため、この詩は、捕虜とされていた時代の嘆きの詩を元として、解放された時の喜びの言葉が加えられ、エルサレムの第二神殿の祭儀で用いられるために編纂されたと考えられています。

 このような背景は、私たちにも大切な意味があります。なぜなら私たちも、礼拝の時に苦しみや嘆きを神に告白し、聖書の御言葉と聖霊によって救いへと導かれ、「主に向かって歌う」(6節=賛美を捧げる)者とされるからです。この意味を心に留めて、神が礼拝を通して、私たちを苦しみや嘆きから救い出して下さる御業に信頼する者とされるように祈り合いながら、詩編13編を歌い継ぎましょう。

 

詩編14編

 「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』」という御言葉は、イスラエルの人々が捕虜とされていた時代に、バビロンの人々から嘲られた時の言葉であると考えられています。また「神を求める人はいないか」(2節)、「悪を行う者は知っているはずではないか」、「主を呼び求めることをしない者よ」(4節)という御言葉は、イスラエルの人々がバビロンで歩んでいた時代に、信仰から離れた者がいたことが示されています。

 さらに、「イスラエルの救いがシオンから起こるように」、「主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき」(7節)という御言葉は、イスラエルの人々が捕虜から解放された後に、シオン(=エルサレム)の神殿で再び礼拝を捧げる歩みへ導かれたことを伝える意味があります。このため14編は、13編と同様に、イスラエルの人々が捕虜とされていた時代の嘆きの歌を原詩として、捕虜から解放された喜びが加えられ、エルサレムの第二神殿で用いられる賛歌として現在の形に至ったと考えられています。

 13〜14編がいずれも、エルサレムとバビロンを背景に歌われ、現在の形で歌い継がれていることは、私たちにも身近な意味があります。なぜなら私たちは、日曜日に礼拝を守った後に、週日の歩みにおいて苦しみや悩みに直面することがあっても、日曜日ごとに週日の苦難から解放され、礼拝を捧げる神の民とされるからです。この意味をおぼえて、旧約時代の「神殿」が私たちの「教会」であることを心に留めると共に、神が私たちを繰り返し礼拝へ導いて下さる御業に信頼する者とされるように祈り合いながら、教会生活を歩み続けてまいりましょう。

author:sugamo-church, category:聖書研究, 17:20
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